第二十四話 月下の悪夢と、繋いだ手のぬくもり
公務から帰ってきたルシアンは、私と過ごしている時には見たこともないような、険しく、凍りつくような顔をしていた。
「……ルシアン、どうしてそんなに怖い顔をしているの?」
恐る恐る尋ねる私に、彼はぽつりぽつりと話し始めた。
私と出会う前の凄惨な過去、そして、今日書斎で対峙した王妃イザベラの毒に満ちた言葉。
いつの間にか、私の頬には涙が伝っていた。
「……辛かったわね。話してくれてありがとう、ルシアン」
「どうして、君が泣くのさ」
困ったように笑って、ルシアンが私の涙を指で拭ってくれる。
ああ、どうしてこの人は、自分が一番傷ついているはずなのに、こんなにも切なくて優しい顔で笑うのだろう。
(大好き。この人を、もう二度と泣かせたくない……!)
「ねえ、ルシアン。私はずっとそばにいるわ。あなたがもう辛い思いをしないように、私が全力で守って差し上げますからね!」
私が鼻をすすりながら全力の笑顔を見せると、ルシアンは「ありがとう」と私の頭を愛おしそうに撫でた。
(王妃様の悪意から、絶対にルシアンを守ってみせますわ! これがゴリラ……いえ、元・悪女の実力ですわ!)
そう心に誓う私。隣のルシアンもまた、全く同じ決意を胸に秘めているとは露知らず。
その日の夜。
月光が優しく差し込む寝室で、私とルシアンは眠りについていた。
……不意に、隣から漏れる苦しげな吐息に目が覚めた。
「……レオノーラ……行かないで……っ!」
ルシアンが悪夢にうなされている。彼は泣きながら、弾かれたように目を覚ました。
「ルシアン!? 大丈夫、私はここにいますわ!」
暗闇の中で震えている彼を、私はそっと抱きしめた。
「レオノーラ……。君がいなくなる夢を見たんだ。僕を置いてどこへも行かないで……。君がいなきゃ、僕はまたあの頃の無能王子に戻ってしまう。君がいないと、僕は生きていけないんだ……」
綺麗な虹色の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちる。
私はルシアンの頬を両手で包み込み、真っ直ぐに彼を見つめた。
「ルシアン。私はどこへも行きませんわ。私の居場所は、あなたの隣ですもの。あなた以外の場所で生きていこうなんて、思いもしませんわ」
「……本当に?」
「ええ、本当です。ルシアンが私を必要としてくださる限り、ずっとおそばに居ますわ」
優しく微笑んで涙を拭うと、ルシアンは少しだけ安心したように私の胸に顔を埋めた。
「ふふ。レオノーラの手は温かくて、落ち着く。ねえ……今日は手を繋いで寝てもいい?」
「もちろんですわ! 辛い時にそばにいるのが妻というものですわ。もっと頼ってくださいな!」
私が手を差し出すと、彼は壊れ物を扱うように、けれど逃がさないように深く指を絡めてきた。
「こんな悪夢を見るなんて、昔以来だ……。最近は見てなかったのに。……でも、昔もこうやって、君は僕の手を繋いでくれたよね」
「ええ。何度だって繋ぎますわ」
小さい頃は、震える小さな手をただ握りしめるだけで精一杯だった。けれど今、繋がれたこの手は、あの頃よりもずっと大きく、頼もしく育っている。同じ仕草のはずなのに、そこに宿る温度は、あの日とは違う甘さを帯びていた。
月光が二人を包み込む。
私は先に眠りの中に落ちてしまった。
けれど、ルシアンはいつまでも、繋いだ手の感触を確かめるように見つめていた。
(今も昔も、僕の大切で失いたくない人。君がくれた全部が、僕の宝物なんだ……)
繋いだ手の指を、ルシアンはそっと自分の指の間に深く絡め直す。まるで、幼い頃には知らなかった「もう一つの繋ぎ方」を確かめるように。
寝息を立てる私の頬に、そして唇に、彼は羽が触れるような軽い口づけを落とした。
「お休み、僕のレオノーラ。……何があっても、僕が君を地獄から守り抜くよ」
その誓いを紡いだ後、ルシアンは繋いだままの手をそっと解くと、私の体をそっと自分の胸元へと抱き寄せた。かつては、彼の方が私の腕の中で丸くなって眠るのが常だった。けれど今は、大きくなった腕の中に、私がすっぽりと収まっている。
(……昔の僕は、君に護られてばかりだった。でも、これからは僕が、君をこうして抱きしめて眠る番だ)
規則正しい寝息を立てる私の髪に顔を埋め、ルシアンは満ち足りたように目を閉じた。
その誓いは、月の光だけが静かに聞いていた。




