第二十三話 宿敵との対峙(ルシアンside)
書斎の窓から差し込む木漏れ日を見つめながら、僕は物思いに耽っていた。
ここまで、来たんだ。
六年前、離宮の隅で震えていた自分には、今の僕なんて想像もできなかった。当時の僕は「いない者」だった。自分が何者なのか、生きる意味があるのかさえ分からなかった。母様が殺されてからは、特に。
母様は有名貴族の生まれで、その美貌と教養から、引く手あまただったと聞いている。本当は、別に愛した人もいたらしい。けれど陛下に見初められ、側妃となった。後宮に入ってからも、母様は目立つことを嫌い、静かに、慎ましく陛下に尽くしていた。
母様と過ごした時間は、僕の人生で一番の幸せだった。二人で歌を歌って、本を読んで、寄り添って眠って……。この幸せが永遠に続くと信じていた。あの日、あの瞬間までは。
あの日、僕は勉強のために少しだけ母様の元を離れていた。「おかえりなさい」と迎えてくれるはずの優しい声を期待して戻った僕を待っていたのは、喉の奥を突き刺すような、鉄の臭い。
部屋に入った僕の目に飛び込んできたのは、血を流して横たわる母様と、その横で高笑いをするイザベラ王妃の姿だった。
「この女はね、罪を犯したの。私の大切なネックレスを壊したのよ……」
僕を見下ろしながら、彼女はそう吐き捨てた。
衝撃に耐えきれず、僕はその場で意識を失った。それからの日々は、まさに地獄だった。「母様を殺したのは王妃様だ」と訴えても、誰も信じてくれない。逆に「母親を失ったショックで頭がおかしくなった」と嘲笑されるだけ。
だから、僕は周りに期待することさえ、自分自身の人生さえ、諦めたんだ。
レオノーラとの婚姻だって、王妃が仕組んだ罠だと分かっていた。彼女が悪女であることを利用して、僕を精神的に追い詰め、殺そうとしていたんだろう。
けれど、レオノーラの「正体」は、誰にも予測できなかった。あの狡猾な王妃でさえ。
僕を信じ、無償の愛を与え、ただ隣にいてくれた。レオノーラがいてくれたから、僕は強くなれた。
だからこそ、誓ったんだ。この人だけは、何があっても護り抜くと。かつて、母様が僕を護ってくれたように。
王妃の刃が、確実にレオノーラに向けられている。そう警戒を強めていた時、書斎の扉がトントンと叩かれた。
入ってきた人物を見て、僕は指先が冷たくなるのを感じた。
イザベラ王妃。あの日と変わらぬ、優雅な微笑みを顔に貼り付けたまま、彼女はゆっくりと部屋に足を踏み入れる。
「……公務に励むのは結構ですが、少しばかり『欲張り』が過ぎるのではないかしら?」
あの時と同じ、光を一切通さない冷酷な瞳が僕を射抜く。
「僕が……欲張り、ですか?」
「そうよ! カロハスの仕事まで奪って! 所詮は妾の子のくせに!!」
王妃が剥き出しの罵声を浴びせてくる。僕は震える心を抑え、淡々と告げた。
「奪ってはいません。兄上の手伝いをしているだけです。僕が兄上に敵うはずもないことは、僕自身が一番自覚していますよ」
謙遜ではなく、事実として。だが、その落ち着いた態度こそが、王妃の癇に障ったらしい。彼女の目尻がぴくりと引き攣った。
「……フン、本当に母親がああなら、息子も息子ね。貴方、全面的にレオノーラを信じているようだけど、あの子は根っからの悪女よ? 貴方を信じ込ませて、最後にはポイと捨てるに決まっているわ。貴方のことなど、一ミリも愛してなんていない」
不気味な笑みを浮かべ、彼女は僕の耳元で囁く。
「それより、私が貴方に相応しい令嬢を紹介してあげますわよ?」
企みを含んだその提案を、僕は一秒の迷いもなく切り捨てた。
「レオノーラのことは、僕が一番よく分かっています。ですから、ご心配なく。……それに。もし他の令嬢を何百人紹介されたとしても、僕はレオノーラ以外を愛せる自信はありませんので」
僕の揺るぎない瞳に、王妃は一瞬だけ言葉を詰まらせた。だが、すぐにその唇は、獲物を前にした蛇のように歪んだ笑みを取り戻す。
「……そう。随分と、母親譲りの頑固さね。あの女も、最後まで私に屈することはなかったもの」
その一言に、僕の中で何かが冷たく凍りついた。母様の死を、まるで些細な余興のように語る、その口ぶり。
「……王妃様。一つだけ、忠告しておきます」
「あら、この私に忠告?」
「僕はもう、あなたが思うような『いない者』ではありません。もし、レオノーラに指一本でも触れるつもりなら――僕は、あなたが誰であろうと容赦しません」
僕の声には、自分でも驚くほどの静かな怒りが滲んでいた。王妃は一瞬、虚を突かれたように目を見開いたが、すぐに扇で口元を隠し、優雅な足取りで部屋を後にした。
僕にはもう、彼女の言葉に揺らぐような「隙」など残っていない。
レオノーラがくれたこの命も、この想いも。何者にも、汚させはしない。




