第十四話 その声で呼ばれたら、淑女(ゴリラ)も形無しですわ!
離宮に春の嵐が吹き荒れた後。
私は、最近、13歳のルシアン様の「異変」に戸惑っていた。
「レオノーラ様、お茶が入ったよ」
「……っ!?」
背後から聞こえてきた声に、思わず肩が跳ねる。かつての鈴を転がすような高い声ではない。少し低く、喉の奥で共鳴するような、深みのある少年の声。……そう、声変わりですわ!
「まあまあ! ルシアン様、なんて素敵な声になられたのかしら! どんどん立派な殿方になっていかれますわね。私、自慢の旦那様すぎて鼻が高いですわ!」
私が「おっほっほ」と鼻を高くして自慢げに笑うと、ルシアン様は困ったように、でもどこか艶然とした微笑みを浮かべて私を見つめた。
「ねえ、レオノーラ様。……いい機会だし、提案があるんだけど」
「提案? なんでしょう、新しい特訓メニューかしら?」
「違うよ。……これからは、お互いに様付けで呼ぶのをやめよう。僕たちは『夫婦』になるんだから」
ドクン、と心臓が鳴る。
(まあ、なんて殊勝なことを! 確かに、いつまでも様付けでは距離がありますわね。よし、ここはひとつ、お姉様……いえ、婚約者として一肌脱ぎましょう!)
「よろしいですわ! では、今日から呼び捨てにしましょう。……さあ、練習ですわよ!」
私が意気揚々と胸を張ると、ルシアン様は一歩、私との距離を詰めた。逃げ場をなくすように、私の瞳をじっと覗き込む。
「……わかった。いくよ、レオノーラ」
「――ッ!!」
低くて、少しだけ熱を帯びた、甘い吐息のような声。名前を呼ばれただけなのに、まるで耳元で囁かれたかのような錯覚に襲われる。
脳を直接揺さぶるようなその響きに、私の淑女としての堤防(および血管)が決壊した。
ブフォッ!!!(大噴出)
「レオノーラ!? 大丈夫!? 鼻血が……すごいよ!?」
「だ、大丈夫ですわ……少し、あなたの声が『イケボ』の限界突破をいたしまして……っ!」
ハンカチで鼻を押さえながら、私は真っ赤な顔で視線を逸らす。
「じゃ、じゃあ、私も……いきますわよ。……ル、ルシアン」
慣れない呼び捨てに、心臓が口から飛び出しそうになる。
すると、ルシアンはそれまでの少し大人びた表情をどこへやら、花が咲くような満面の笑顔を浮かべた。年上の色気を纏った青年から、一瞬で無邪気な少年へ、その落差に、こちらの調子が余計に狂う。
「……うん! 嬉しいな、レオノーラに名前を呼んでもらえるの。もう一度、呼んでくれる?」
(あああああ!! さっきまでの色気はどこへ!? 笑顔が眩しすぎて直視できませんわ!!)
「ル、ルシアン! ルシアン、ルシアン、ルシアンですわ!!」
「ふふ、ありがとう。……大好きだよ、レオノーラ」
(……待って、いまサラッとすごいこと言いませんでした!?)
私の動揺などお構いなしに、ルシアンは嬉しそうに私の手を握り、ぶんぶんと振っている。
レオノーラは、「やっぱりまだ可愛い弟のような旦那様だわ」と自分に言い聞かせて赤面を誤魔化していたが、握られた手の力が、以前よりずっと強くなっていることには気づかないふりをしていた。
沼は、もう足首までではなく、腰のあたりまで深まっていた。それでもまだ、自分が沈みかけていることにさえ、レオノーラは気づいていなかったのである。




