第十話 熱に浮かされる君と、僕のなかの黒い檻(ルシアンside)
出会った当初、噂通りの「悪女」と僕は共に生涯を歩んでいくのだと思っていた。
どんな目に遭わされるのだろう。どれだけ痛い思いをするのだろう。
そう身構えていた僕を、彼女は出会った瞬間にそっと抱きしめた。その腕の温かさが、僕の凍りついた心を一瞬で掴んだんだ。
それからの彼女は、僕をいじめたり貶めたりすることは一度もなかった。安全な家と、温かい食事と、柔らかな服。何かを見返りに求めることもなく、ただ僕に「居場所」をくれた。
暮らし始めてすぐにジョン兄上が来た時、僕はまた殴られ、蹴られるのだと怯えていた。けれど、彼女は僕の前に立ち、毅然とした態度で兄上に言い放った。
『ルシアン様は、この王国のどの宝石よりも、空に輝くどの星よりも、私にとっては尊く、美しく、価値のあるお方ですわ!』
息を呑んだ。そんなふうに言ってもらえたのは、生まれて初めてだったから。
『誰にも、彼を貶める権利なんてありません。……もしあると言うのなら、この私が、その汚い口を二度と開けないよう縫い合わせて差し上げますわ!』
守ると。ここにいていいと。彼女が僕の存在を認めてくれたことが嬉しくて、涙が止まらなかった。
それから僕は彼女に心を開いた。彼女は勉学や体術、生きるための術をたくさん教えてくれる。大変だと思うこともあったけれど、彼女はいつも僕の頑張りを見て、大げさなくらい褒めてくれた。それが何よりも嬉しかった。
母様が亡くなってから、僕はよく悪夢を見る。目の前で血を流して倒れる母様。謂れのない罪で処刑された、あの日の光景。怖くて、苦しくて、夜中に泣き出してしまう僕を、彼女はいつも抱きしめて子守唄を歌ってくれた。トントンと叩くリズムと、彼女の心音が心地よくて、僕はいつの間にか安心して眠れるようになっていたんだ。
……なのに。
いつも僕の先を歩き、どんな困難も笑ってなぎ倒していくレオノーラ様。太陽みたいに明るくて、絶対に折れないと思っていた彼女が、今、真っ赤な顔をしてベッドに横たわっている。
「……ル、ルシアン……さま……ごめんな……さ……」
弱々しく僕の名を呼ぶ声。心臓がぎゅっと握りつぶされるみたいに痛い。
昨日、僕のために雨の中を森へ一狩り(?)しに行ってくれたせいだ。彼女が濡れた髪のまま笑って帰ってきた姿を、僕はどうして止めなかったんだろう。
僕は濡れタオルを絞り、彼女の熱い額にそっと置いた。手のひらに伝わる熱が、いつもの彼女の体温とはまるで違うことが怖かった。
「レオノーラ様、喋らないで。……僕が、そばにいますから」
彼女がいつも僕にしてくれることを思い出す。キッチンへ行き、教わった通りにスープを作ってみた。包丁を持つ手が震えて、うまくできないけれど。彼女を助けたい一心で、必死に火を見守った。
出来上がったスープをスプーンですくい、彼女の唇に運ぶ。
「美味しい……ですわ……」
ふにゃりと、彼女が力なく微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、僕の胸の奥で、ドロリとした何かが溢れ出した。
(……え? なんだろう、この気持ち)
元気な彼女は大好きだけど、こうして僕がいなければ何もできない彼女を、なんだか「離したくない」と思ってしまう。僕がスープをあげないと、僕が手を握っていないと、この人はどこかへ行ってしまうかもしれない。
そう思ったら、急に怖くなった。同時に、その怖さの奥に、目を逸らしたくなるほど甘い感覚が潜んでいることにも、僕は気づいてしまった。
(……ずっと、僕だけを見ていてほしい。僕だけのレオノーラ様でいてほしい)
レオノーラ様はまた小さく寝息を立て始めた。僕はその手を離さず、彼女の枕元でじっと彼女を見つめ続けた。
彼女が目を覚ました時、一番に映るのが僕であるように。彼女が頼れるのが、僕一人であるように。
外では冷たい風が吹いている。けれど僕の小さな手は、彼女の熱を確かめるように、ずっと、ずっとその指を絡めていた。
まるで、二度と逃さないというように。




