スライディング土下座することになるとは夢にも思わない
時は飛ぶように流れた。
(平和だなあ)
私は満足げに、穏やかな午後の陽だまりを感じていた。
***
あれから少したって、桐壺帝は帝位を譲渡し、姫様ーー中宮様を伴って院となられた。
同時に、弘徽殿の女御様の皇子が帝位を継ぎ、朱雀帝となられた。
そして東宮に、光るの宮を選ばれたのであった。
右大臣は関白、
左大臣は太政大臣、
我が父上は右大臣へと出世。
そして私はなんと、光るの宮の『東宮宣旨』に選ばれた。
東宮宣旨とは、まだ幼い東宮のあらゆる書類の取次やご政務を補佐する、公的な世話頭みたいなものである。
院と中宮(推しカプ)に頼まれて断れるものがいようか、いやいまい。(反語)
光るの宮の乳母となった、播磨の乳母と共に、幼い東宮をお世話する。
大変なこともたくさんあったが、極めて充実した日々だった。
内裏でのドロドロ悲劇がなくなり、穏やかにお茶を飲める日ができた。
中宮様と笑いあいお喋りする女子会(院付き)は月一の楽しみ。
中宮様はお酒が得意でないため、たまに名酒が手に入ったら弘徽殿の女御様――いや、太后宮様とサシで飲みあう飲み会は随時開催している。
お父様も叔母様も健在で、手紙のやり取りや、たまに実家に帰って顔合わせを楽しむ。
そして東宮であり、めちゃめちゃ可愛い光るの宮を愛でる毎日。
私はこの世の春を謳歌していた。
***
光るの宮は、私の裾をくいっとひっぱり、尋ねた。
「ねえねえ、紅蓮の君は結婚しないの?」
「(きゃわいいー!!) 私はまだ、興味が無いのですよ」
「でも紅蓮の君、宮中でも人気なんでしょ?
恋文もひっきりなしに貰ってて、しょっちゅう誘われてるって」
「待ってください若君。
七歳の若君にそんなことを吹き込んだのは誰ですか?」
「少納言だよ」
「(あのお喋り好き女房め……)
コホン。
若君、確かに男性とのお付き合いは魅力的ですが、私は今、充分すぎるほど幸せなのですよ。
桐壺院様や中宮様、私のお父様や叔母様、そして若君に朱雀帝、太后宮様。
皆様のお幸せそうな姿を垣間見ることが、私の幸せであり誇りなのです」
(私を手玉にとって、叔母様やお父様、院や中宮、太后宮様の権力をかさにしようとする男も多いしなぁ)
皇族一家(推し)の幸せが私の幸せである。
目を見開いた光るの宮は、少し頬を赤らめながらもごもごと口を開いた。
「……で、でも、女性の幸せは地位ある殿方に見初められて、結婚することなんでしょう?
みんな言っているよ」
私はそっと膝をつき、光るの宮と目を合わせた。
「若君。私の幸せは、私が決めるものです」
光るの宮は、その澄んだ瞳を、溢れんばかりに見開いた。
「もちろん、殿方に見初められ結婚することも、幸せの形の一つでしょう。
でも、幸せとは世間の声ではなく、私たち自身の心が決めるものなのですよ」
「私達の、心……」
「ええ。
若君、あなた様は東宮。
未来の帝になられるお方。
これから宮廷の心無い噂や陰口で、御心を乱される時があるでしょう」
そっと、その小さい御手を握る。
この子は賢い。
賢すぎるあまりに、理解したくないことまで理解してしまう。
大人たちの欲に気づいてしまい、子供ゆえに苦しむことも、きっとある。
「ですが、どうかどんな時も、他人の声で己の声を見失うことがないように。
あなた自身の人生で、あなただけの幸せを、見つけてくださいませ。
あなたのお父様が、身分という枠組みにとらわれず、あなたのお母様を愛したように」
――あなたにもいつか、そうなってもらいたい。
そっと微笑む。
「その時まで、この紅蓮の君が、あなた様ご一家をお守り致しますわ」
どうか、たくさんの美しいものに胸をときめかせて、
心からの笑顔を浮かべられる瞬間を、すこしでも多く積み重ねられます様に。
あなたの長い人生に、あまたの幸福が訪れることを、願っている。
ーーその微笑みは、薄桃色の蓮が、柔らかく開いたかのようだった。
春の光が、紅蓮の君を包み込む。
光るの宮は、その光景に息を呑んだ。
きらきらと輝く紅蓮の君の眼差し。
その光は、どんな宝玉よりも、美しく光るの宮には見えた。
「まあ将来、素敵な人が現れたら、私も結婚を考えますかしら」
「……紅蓮の君は、どんな人と結婚したいの?」
「え?
そうですわね……私のことを大切にしてくれる、誠実な人かしら」
「ふうん……他には?」
「(?) ええと……できれば私だけを愛してくれて、見つめてくれる人……かしら」
(できれば『落窪物語』のヒーローみたいな、
一途な超絶スパダリが最高だけど。
そんな人、この一夫多妻が当たり前な平安時代では滅多に居ないだろうし)
「ねえねえ、紅蓮の君」
「はい、なんでしょう。若君」
「将来私がそういう大人になったら、紅蓮の君は私と結婚してくれる?」
桔梗色の蝙蝠扇をぽろりと落とした。
地面に落ちる前に、要に結ばれた黄丹の組紐をキャッチする光るの宮。
七歳児だとは思えぬ華麗な反射神経に、しばし唖然とする。
「はい、扇落としたよ」
「あ、ありがとうございます……」
(え、何?
幻聴???)
紅蓮の君は、危うく思考がショートしかけたのを寸前で抑える。
扇で汗を隠しつつ、引き攣った笑みを浮かべた。
「申し訳ありません若君。
突発性の難聴が起きたみたいです。
今何と?」
「私が紅蓮の君の理想の人になったら、将来私と結婚してくれる?」
(幻聴じゃなかった)
汗がダラダラと出る。
「……えーーっと若君。
若君は将来帝になられるお方なのですよ?
私よりも、もっと素敵な人が若君には現れますわ」
「やだ。紅蓮の君がいい」
ぷくっと頬をふくらませて、脚に抱きつく光るの宮。
(ぐうかわ…… って違うそうじゃない!)
脳内で緊急倫理委員会が開かれている間、光るの宮はポツリと言った。
「だってそうすれば、紅蓮の君は、ずっと私の側にいてくれるでしょう?」
緊急倫理会議を一時中止する。
(ああ、そうか。
若君は、お父様もお母様もお兄様も、院や中宮、帝のご政務で忙しいのだもの。
きっと、寂しいのね)
原作と違ってご両親は御壮健でラブラブ。
お兄様ともすこぶる仲が良い。
ただ、溢れる愛情に包まれても、やっぱり皆様ロイヤルファミリー。
忙しすぎて、若君のお側にいらっしゃらないことは多々ある。
(姉みたいに思っている私が、将来いなくなってしまったらと思ったんだろう。
それで、ずっと側にいてもらいたくて、結婚っていう言葉を出したのね)
子供の戯言として跳ね除けるのは簡単だ。
でも、そうはしたくない。
すっと腰を折り、光るの宮に向き合う。
「わかりました、若君。
では将来若君が素敵な大人になられて、その時お慕いする方がおらず、
まだ私を思ってくださっていたら、考えますわ」
光るの宮は、ぱあっと花が咲いたように笑った。
「本当!?」
「ええ」
将来大人になれば忘れるだろう――そんな目論見に、少しの罪悪感はある。
でも、これが今の私にできる精一杯の誠意だ。
「約束だよ!」
「はいはい、若君」
小さな指を絡ませてくる光るの宮に、くすりと笑った。
――八年後、この時の口約束を恐ろしく後悔することを、紅蓮の君はまだ知らない。
***
「お宅の純粋な息子さんを誑かしてしまい、大変、大変申し訳ありませんでしたぁ!!」
八年後、そう言いながら桐壺院と中宮にスライディング土下座する紅蓮の君が居たとか、
居なかったとか……
ここまでお読みいただき本当にありがとうございました!
この時代、皇族の一言は鶴の一言、特に約束は魂の誓いでした。
紅蓮の君は大変な約束をしてしまいました……。
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明日【12時】に更新予定です。
今後も「ありえない源氏物語」をよろしくお願い致します!




