泡沫の夢
ゆっくりと、弘徽殿の女御様を見据える。
「弘徽殿の女御様……いえ、『未来の国母』様。
これであなた様も第一皇子様も、右大臣家も、何も脅かされるものはございませぬ。
ですから……」
私は、最高に不敵で、最高に優しい笑みを浮かべた。
「桐壺の女御様への無意味なお戯れは、もうおやめくださいませ?」
扇の影から、にっこりと笑みを浮かべる。
じっとこちらを見据える弘徽殿の女御様。
しばし、見つめ合った。
やがて、彼女が大きく息を吐いた。
「……よかろう」
すっと、彼女は扇を畳んだ。
初めて真正面から、弘徽殿の女御様の顔を見る。
燃えるような、強い瞳に私が映る。
その瞳は、まぎれもなく気高い花だった。
「その条件をのむこと、誓う。
我が諱にかけて」
私は思わず、目を見開いた。
後宮を生き残るための計算でもない、ただ一人の母親としての覚悟。
一拍の後に、すっと頭を垂れる。
諱とは本名。
この時代、名前は魂に紐付くものだった。
うっかり悪人に名前を知られると、呪詛をかけられて呪い殺されることもある。
つまり彼女は、自分自身の魂と命にかけてこの誓約を結ぶと訴えたのだ。
「ありがとうございます。我が国の次期国母様」
もしこの誓約を破れば、神仏を騙したことになり、恐ろしい神罰が我が身や最愛の息子に降りかかる。
彼女もそれを、理解した。
立ち上がり、一礼と共に裾が舞う。
「それでは、わたくしはこれで。
ご無礼いたしま――」
「お待ち」
閉じた扇をピシッと叩く音が、背後から聞こえる。
ゆっくりと振り返った。
「何用でございましょう?」
「なぜ桐壺の産んだ第二皇子を東宮に据えるよう根回ししなかった。
桐壺が中宮に引き上げられるのと同時に」
ぱら、と尊大に開かれた扇が、弘徽殿の女御様の顔を隠す。
「そなたなら、そのぐらいのことはできたであろう」
ぴり、と空気が再び張り詰めた。
ゆっくりと、息を吐く。
その重さに、真っ向から向き合った。
「それで得るのは、束の間の平穏のみでございましょう」
紅色の扇は開かない。
顔を隠すことなく、強い瞳で彼女を射る。
「あなた様や右大臣様を蔑ろにして得た地位に、何の価値が?」
瞠目している彼女に、言い切った。
「泡沫の夢など、わたくしは欲しくありませぬ」
凍り付いたように動かなくなった弘徽殿の女御様。
その後ろに控える女房たちもまた、完全に息を呑んでいる。
そんな女性たちに、もう一度、ほほえみを見せた。
「望むのは、この日出づる国の永久の平穏。
泰平の世。
そうではございませぬか?」
叔母である御匣殿別当から譲り受けた扇を、そっと揺らした。
禁色に触れぬ絶妙な紅蓮の色合いは、叔母の知性と何者にも屈しない強さにあやかりたくて、手に携えたもの。
驚愕と畏れを宿す弘徽殿の女御様の顔を見る。
原作では桐壺の更衣を苛め抜き、光源氏をも失脚させようと企んでいた一番の悪役。
でもその裾の陰に隠れていたのは、違う顔。
(自分の子供を――大切な人を守るために、彼女は鬼にならざるを得なかった。
そういうところ、私と貴女は、少し似ている。)
恭しく礼を取ったのち、私は幾重にも重なる衣の裾をさらりとさばき、凍りつく弘徽殿を後にした。
すれ違いざま、袖口に織り込まれた薄っすらとした蓮華文が、艶やかに光を弾いていた。
***
そして、誰もいない牛車の中に駆け込んだ瞬間。
「……ふぅぅぅぅぅぅうううわあああああ!!
緊張したーーー!!
死ぬかと思ったーーー!!」
私は崩れ落ちるように床に突っ伏し、前世のアラサーの顔で床を激しくローリングした。
(あっっぶなかったーー!
ラスボスのオーラ半端なかった! !
「泰平の世」とかめちゃくちゃカッコつけたこと言っちゃったけど、脳内完全に心臓バックバクの酸欠状態だったわ!!!)
だが、勝った。完全に勝った。
第一皇子、つまり後の朱雀帝の地位を守ることで、弘徽殿の女御は最高の味方になった。
ぶっちゃけ、東宮という地位が重要なのではないのだ。
大事なのは、「第一皇子も第二皇子も、それぞれに強力な後ろ盾があり、相応の地位を持つ」という事実。
宮廷においてのパワーバランスを乱さないことだ。
それが、戦や内乱を引き起こさず、国が平和であるための、唯一の近道。
(もし、光るの宮様が成長なさった後、どうしても帝の地位につきたくないと仰られたのなら。
その時また根回しをすればいい。
やりようはいくらでもある)
だから、大丈夫。
誰も血を流さず、誰も不幸にならない。
完璧な二大政党・連立政権シナリオの完成である。
「よっしゃあああ!!!」
高らかに叫んだせいで次の日喉を痛めて風邪をひくことになるとは、この時の私は知る由もなかった。
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