ラスボスと最終決戦です
「あの浅ましい桐壺の犬が、このような場所に何の用ぞ?」
華々しい衣装が干され、絹の光沢が重く光る。
「美しい絹に群がる、不届きな羽虫どもが」
濃紫の檜扇から覗く剣呑な眼差しは、冷酷な蛇を思わせた。
(きたわラスボス)
「本日も満開の美しさですわね。
弘徽殿の女御様」
奥に鎮座する弘徽殿の女御の装いは、見る者を圧するほどに絢爛であった。
勅許を得た者しか纏えぬ濃紫の唐衣には、重厚な金糸の織り模様が光を返し、袖口からは山吹と蘇芳の衣が重厚な層をなして覗いている。
背後に長く引き残された裳の絹地には、金銀の箔で描かれた鳳凰が、蠢くように重く光を放っていた。
ふんっと、弘徽殿の女御は鼻を鳴らす。
「零落家の娘ごときが、どうやって殿上に取り入ったのか。
権力に群がる獣ほど、卑しいものはないのお」
ぬるりとした視線が、肢体に絡みつくのを感じた。
「そうは思わぬか?
先々帝の姫君――紫苑の姫宮を母に持つそなたなら判ろう?
金を司る大宰大弐の娘、絹を司る御匣殿別当の姪よ」
微笑みを浮かべた顔にかかる前髪が、私の額の青筋を隠した。
零落家の娘とは、姫様のことだ。
(……チッ。
私のバックボーンが強すぎて手が出せないからって、マウンティングに切り替えたわね)
くいっと、顎を上げる。
(上等じゃない)
叔母である御匣殿別当の手によって立てられた晴れの装束が、私の黒髪に併せてさらりと揺れた。
その装束は、蓮花を描いた鮮やかな濃い紅の表地に、柔らかな萌黄の裏地を合わせたもの。
私は、背後に控える女房が捧げ持っていた、ある箱をスッと手元に引き寄せた。
「――恐れながら、弘徽殿の女御様。
その『卑しい犬』から、本日は時代の流れを担うにふさわしき女御様へ、とっておきの【貢ぎ物】をお持ちいたしましたの」
弘徽殿の女御は、眉を顰めた。
「貢ぎ物かえ? 銀も金も宝玉も見飽きたわ。
まさかそのような面白みのないものを、わざわざここまでもってきたわけではあるまいなぁ?
紅蓮の君よ」
「いいえ、まさか。
そのようなもの、今を時めく女御様のお目に掛けるなど、とてもとても」
ほほほ……と絶対零度の温度で笑い合う。
木箱に納められていた紙の束を差し出した。
墨のにおいが、ふわりと辺りに立ち込める。
「主上からの密旨でございまする」
弘徽殿の女御の表情が、ゆっくりと消える。
「弘徽殿の女御様」
すっと、腰を下げる。
「どうか主上の正妻――中宮の座を、我が主、桐壺の女御様にお譲りくださいませ」
弘徽殿の女御の柳眉が跳ね上がる。
女御様の怒声が内裏を震わせる寸前、私はその手元にある密旨を納めていた木箱を、指で弾いた。
タンっと木箱が重く響く音が跳ね返る。
その音に一瞬、弘徽殿の女御が怯んだ隙に、口を挟む。
「そのかわり、あなた様の御子である第一皇子を正式に東宮――つまり次期帝に据えるとのこと。
主上にお約束賜りました」
大きく見開かれた彼女の瞳は、扇では隠せていない。
(なぜ、原作であれほど弘徽殿の女御が桐壺の更衣を虐めたのか。
それは、夫を取られた妻の妬みだけではない)
自分の息子を守るためだ。
(もし帝が桐壺への寵愛のあまり、第二皇子を東宮に据えれば、第一皇子の面目はなくなる)
これまで帝の第一皇子として許されていた華やかな権力も地位も、すべて奪われる。
そうなった皇子の末路など、みじめなものだ。
(そうはなってほしくない)
みんなハッピーエンド、誰もが泣き寝入りしない世界。
私が欲しいのはそれなのだから。
そのためなら私は、この身を修羅に落としてみせる。
「主上は、桐壺の女御様を中宮として正式に発表するのと同時に、第一皇子様を正式に東宮に据える発表をすると、誓ってくださいました。
それはその密旨……いわば帝直筆の、誓約書にございます。
どうぞご覧ください」
最初から未来のイスを順番通りに約束すればいい。
『第一皇子』が順当に次の帝になり、その次の帝の座は、我が『光るの宮』がもらう。
政権を綺麗にバトンタッチさせればいいのだ。
頭を下げながら、すっと紙の束を差し出す。
弘徽殿の女御はそれを震える手で掬い上げた。
「……確かに、主上の手跡じゃ」
彼女の眼差しが、潤む。
「……な、なんという……。
主上は、この生まれたばかりの第二皇子ではなく、我が子を東宮にと……?
しかも、この誕生の儀のどさくさに紛れて、同時に宣下されると、そうお書きになっておられるのか……?」
「はい。数日中には、正式な宣下がございます。
左大臣殿、そしてあなたの父君であられる右大臣殿。
お二方ともすでに裏で承諾済みでございます。
桐壺の女御様も、喜んで賛同してくださいました」
『私は主上のお傍にいられればよいの』
そう言いながら、ふわりと笑われた姫様の姿が脳裏に浮かぶ。
(国母という地位を全くお望みになっていないところは、流石姫様らしい)
中宮という地位は、女御と違って、帝の御子を産めばいいというわけではない。
いわば大会社の社長を支える、実質的な女社長だ。
儀式の差配に主上の御衣の新調、数多の神事の差配に、後宮の女房たちの統率、文化サロンの主宰。
正妻の地位と同時にのしかかる、重い責務。
(その重みに耐えてまでも、主上のお傍に居たいのですね)
かつて後ろ盾もないまま入内させられ、心細さで泣いていた姫君。
あの姫様は、もういない。
(姫様。お強くなられましたね)
僅かな寂しさ。
だがそれを大きく上回る、誇らしさが胸を占める。
(今は亡き姫様の父君、大納言様。ご覧になっておいでですか?
あなたの遺した姫君は、もう大丈夫ですわよ)
記憶に残る大納言様の笑みを思い出し、私はそっと微笑んだ。
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