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第12話 王都からの来訪者

窓の外から差し込む、薄群青色の夜明けが部屋を満たしている。


私の意識は、微かな冷気と、それとは矛盾するような柔らかな重みによって浮上した。


「……ん、……ユキ……」


寝惚け眼を擦りながら、私は自分の腕の中に視線を落とす。


そこには、銀色の絹糸を編み上げたような美しい毛並みの塊が、私の胸元に顔を埋めるようにして丸まっていた。


ユキ――銀嶺狼(フェンリル)の赤ん坊。


冬の理を司り、その一吠えで山脈を凍土に変えると謳われる伝説の幻獣。


そんな存在が、今はただの「お泊まり組」の園児として、私の腕の中で無防備な寝息を立てている。


「きゅう……、ふ……」


ユキが夢を見ているのか、小さな鼻をひくつかせ、私のパジャマの袖を甘噛みした。


彼女の体毛からは、常に澄んだ雪解け水のような、清冽な冷気が立ち上っている。


普通の人間にしてみれば、氷の塊を抱いて寝ているようなものだろう。

だが、私の小さな身体は、不思議とこの冷気を心地よい刺激として受け入れていた。


私は、自由な方の手でユキの耳の後ろをゆっくりと撫でる。


指先から伝わる、驚くほどの毛密度の高さ。

野生の厳しさを微塵も感じさせない、保育園での手入れが行き届いた極上の手触り。


ユキは撫でられるのが心地よいのか、目を閉じたまま「くぅ……」と喉を鳴らし、さらに深く私の懐に潜り込んできた。


この時間が、私にとっての救いだった。


かつて、王立幻獣飼育施設『第零特殊檻』にいた頃の私は、ただの使い捨ての部品だった。


施設主任――バルトロ。


自らを「第一級魔導飼育士」と称し、幻獣を「国の兵器」としてしか見なかったあの男の下で、私は昼夜を問わず幻獣たちの怒りや悲しみを一身に受け止めていた。


幻獣が暴れれば、私の知識と技術を注ぎ込んで鎮めさせ、幻獣が弱れば、私の生命力を削ってでも維持させる。


あの男は、私の背丈を見下し、いつもこう吐き捨てていた。


『ネネ、お前のような不出来な女に価値があるのは、その特異な魔力特性だけだ。幻獣どもに情をかけるな。奴らは家畜だ。管理を乱せば、お前の代わりなどいくらでもいるのだぞ』


だが、ここから少し離れた辺境の村へ買い出しに行った際に、風の便りで聞いた王都の現状は、皮肉なものだった。


私が解雇された直後、今まで私の「手」と「独白」で辛うじて保たれていた『第零特殊檻』の均衡は、一瞬で崩壊したという。


私が注いでいたのは魔力などではなく、彼らの孤独に寄り添う、言葉を介さない対話だった。それがなくなった檻の中で、幻獣たちは狂乱し、施設を破壊して逃走した。


王都を恐怖に陥れたその責任は、すべてバルトロに向けられた。

国の最高戦力を散逸させ、王都を破壊の危機に晒した大罪。


かつて私を侮辱していたあの傲慢な男は、民衆の前で「無能の極み」と罵られ、今やその首は広場の晒し台に転がっているという。


自業自得、という言葉さえ生温い末路だ。


「……自業自得、か。本当にね」


私は独り言を漏らしながら、ユキの背中に頬を寄せた。


バルトロという重石が取れても、王立施設という「組織」の腐敗が消えたわけではない。


彼の後釜に座った新しい主任が、どのような人物か。


王都から届く不穏な噂――散り散りになった幻獣たちの捜索と、失われた「管理能力」の再獲得のために躍起になっているという話は、この静かな森にも微かな影を落としていた。


――ガサリ。


庭の方から、柔らかな足音が聞こえてきた。


ユキがパッと目を開け、銀色の瞳を窓へと向ける。

警戒の唸りではない。それは、待ちわびた「お友達」を迎える期待の眼差しだった。


私はユキを抱えたままベッドから抜け出し、窓を開けた。

朝靄の向こうから現れたのは、瑞々しい緑の耳を揺らす、小さな影。


ルウ――葉耳兎リーフ・イヤー・ラビット


この森の植物の成長を司る、緑の守護者の幼子だ。


ルウは、森の奥にある「緑の揺りかご」と呼ばれる巨木の洞で夜を過ごし、朝になるとこうして登園してくる。


「おはよう、ルウ。今日も早いわね」


「もきゅっ!」


ルウは窓辺まで軽やかに跳ねてくると、私の足元に着地し、鼻先で私のサンダルを「くんくん」と突いた。


その後ろからは、圧倒的な威厳を放つ巨大な親兎が、音もなく見守るように立っている。


森の主としての格を持つ親兎は、私に静かに一礼すると、ルウを託す証として、朝露に濡れた美しい青い果実を一つ、庭の石段に置いて去っていった。


「わふっ!」


ユキが私の腕から飛び降り、ルウの元へと駆け寄る。


銀色の狼と、緑色の兎。


本来ならば相容れないはずの赤ちゃんたちが、私の庭で鼻を突き合わせ、昨日の続きを楽しむようにじゃれ合い始めた。


冬を司る理と、森を育む理。


それらが、私の視界の中では、ただの「愛らしい子供たち」として共存している。


私はその光景を眺めながら、淹れたてのハーブティーを一口含んだ。


平和だ。


バルトロのような罵声も、鉄格子に囲まれた冷たい壁も、ここにはない。

ただ、赤ん坊たちの健やかな寝息と、植物が芽吹く生命の音だけが満ちている。


だが、私の心の中には、消えない予感があった。


王都の混乱が極まれば、必ず奴らは「原因」を探し、そして「解決策」を求めて動き出す。


私を使い捨てた連中が、自分たちの無能を棚に上げて、再びこの聖域を侵しに来るだろう。


ユキの銀毛が、朝日に反射して眩しく輝く。

ルウの葉の耳が、心地よさそうに風に揺れている。


「……誰にも、この子たちは渡さないわ」


私は、手に持ったティーカップをぎゅっと握りしめた。


私の身体は、世間的には非力で、守られるべき弱者に見えるかもしれない。


けれど、私にはこの子たちの「親」である世界の理たちが、全幅の信頼を寄せてくれている。


そして何より、私自身がプロとしての矜持を、あの暗い檻の中に捨ててきたわけではない。


平和な朝の空気の向こう側に、不浄な鉄の匂いが混じり始めたのを、私の鋭敏な感覚が捉えていた。


森の結界――などという人為的なものではなく、この森自体の「拒絶」が、外来者の侵入を告げている。


馬車の車輪が、無理やり森の草木を蹂躙し、踏み潰していく音。

魔法道具が放つ、不自然に歪んだ魔力の残響。


「ユキ、ルウ。こっちに来なさい」


私の静かな、けれど通る声に、2つの毛玉は一瞬で遊びを止めて私の足元に集まった。


ユキは銀色の毛を微かに逆立て、ルウは私のふくらはぎの影に隠れながら、森の入り口の方をじっと見つめている。


王立施設の新しい主任。


バルトロの代わりにその椅子を奪い取った、次なる「傲慢」が、すぐそこまで来ていた。


「……さて。お迎えの準備をしなきゃね。保育園の園長として、失礼のないように」


私は、エプロンの紐をきつく締め直した。


心の中に、冷たい怒りを湛えながら。




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