第13話 最強の保護者①
静寂を誇っていた森の空気が、不快な振動によって掻き乱される。
庭の向こう、立ち並ぶ古木の隙間を縫うようにして現れたのは、泥に塗れ、車輪が欠けかけた豪奢な馬車だった。
王家の紋章が刻まれたその車体は、かつての威光など見る影もなく、逃げ惑う敗残兵のような無様さを晒している。
馬車が止まると同時に、中から数人の男たちが転がり出るように降りてきた。
先頭に立つのは、仕立ての良い――だが返り血や煤で汚れた魔導服を纏った男だ。
胸元に輝く、王立施設『主任』の証である第一級魔導飼育士の徽章。
それが、かつて私を見下していたバルトロの死骸から奪い取ったものであることは、想像に難くない。
「……汚らわしい。こんな辺境の、獣の糞尿の匂いがする場所まで来させるとは」
男は鼻を覆いながら、私の小さな身体を蔑むように一瞥した。
彼の背後に控える騎士たちは、全身の鎧がひしゃげ、ある者は片腕を氷漬けにされたように青ざめている。
王都から逃亡した幻獣たちに、散々な目に遭わされてきたのだろう。
「お久しぶり、というか、初めましてになるのかしら。新主任さん」
私は、足元で今にも飛びかからんとするユキの頭を優しく抑えながら、平坦な声で告げた。
男は不機嫌そうに眉を寄せ、私を指差す。
「元雑用係のネネだな。バルトロが処刑された後、第零檻の引継ぎ資料を読んだぞ。お前はただの使えない愚図だと書かれていたが……どうやら、その『知識』だけは本物のようだな。見てみろ、施設の至宝であったはずのフェンリルの稚獣が、あろうことかお前のような小娘に懐いている」
「懐いているんじゃないわ。私は、この子の命を預かっているの」
「呼び方はどうでもいい。王命だ、ネネ。直ちに王都へ戻り、檻を修復しろ。散り散りになった幻獣どもを、お前の知識で呼び戻し、再び繋ぎ止めるのだ。……お前が去ってからというもの、施設の連中はどいつもこいつも無能でな。幻獣一匹満足に御せん」
男の声には、バルトロと同じ、あるいはそれ以上の傲慢さが満ちていた。
彼にとって、幻獣は管理すべき「資源」であり、私はそれを動かすための「歯車」に過ぎない。
バルトロがなぜ死んだのか、その本質的な理由を、この男は一秒たりとも考えていないのだ。
「断るわ。私はもう、施設の職員じゃない。ここは私の保育園よ。この子たちを、またあの冷たい鉄格子の中に戻すつもりはないわ」
私の拒絶に、新主任の顔が怒りで赤黒く染まった。
「……身の程を知れ、愚図女。お前に拒否権などない。王都は今、お前が甘やかした幻獣どものせいで混乱の極致にある。その責任を取らせるために連れ戻してやるのだ。……騎士たちよ、その女を拘束しろ。抵抗するなら、足の一本や二本へし折っても構わん。頭と腕さえ残れば、身体の自由など必要ない」
騎士たちが、鈍い金属音を立てて剣を抜く。
その殺気に反応し、私の足元で二匹が動いた。
「わんっ! ぐぅぅぅぅぅ……っ!」
ユキが前に出た。
その銀色の毛並みから、瞬間的に絶対零度の冷気が噴き出し、庭の草花がパキパキと白く凍りついていく。
彼女の瞳は、もはや甘えん坊の赤ん坊のものではない。
私という「自分の世界のすべて」を害そうとする外敵を排除しようとする、冬の理としての幼き牙。
「もきゅぅぅ……っ!!」
ルウも逃げなかった。
私のふくらはぎを隠すように立ち、短い後ろ足で大地を力強く蹴る。ルウが踏みしめた地面から、硬質化した鋭い蔓が、槍のように新主任の足元へ向かって突き出した。
「なっ、この獣ども……! 飼い主に牙を剥くとは!」
新主任は、腰のホルスターから一本の杖を引き抜いた。
それは、バルトロさえ使うのを躊躇った、禁忌の魔導具――『服従の制鎖』。
幻獣の精神を強制的に焼き切り、死ぬまで支配下に置くための、呪いの術具だ。
「やめなさい! その子たちに、そんなものを向けないで!」
私の叫びを嘲笑うように、新主任が杖を振り上げる。
「黙れ! 躾のなっていない獣など、廃物と同じだ。まずはこの銀の小犬から、一生自分では歩けぬように焼き潰してやる……!」
杖の先端に、どす黒い魔力の光が集束していく。
それは、赤ん坊であるユキやルウが受ければ、魂ごと壊されてしまうほどの悪意。
ユキは逃げなかった。私を守るために、その小さな身体を盾にするようにして、さらに一歩前へ踏み出した。
――その、瞬間だった。
森の、すべての音が消えた。
風が止まったのではない。風そのものが、恐怖によって凝固したのだ。
新主任が放とうとした黒い魔力は、発動する直前、霧が晴れるように霧散した。
いや、霧散させられたのだ。より巨大な、抗いようのない「理」によって。
ドォォォォォン……!
地響きが、心臓を直接握りつぶすような重圧となって響く。
新主任の背後。
壊れた馬車のさらに後ろにある、森の深淵から。
そして、空を覆う雲を割り、銀嶺の頂から。
『世界の理』たちが、我が子の悲鳴を聞きつけ、帰還した。
「……ひ、ひぃ……っ!?」
新主任が、杖を握ったまま腰を抜かし、無様に地面に這いつくばった。
騎士たちは、構えた剣を握りしめることもできず、ガチガチと歯の根が合わない音を立てながら崩れ落ちる。
親狼が、音もなく私の隣に降り立った。
彼女が一息吐けば、周囲の空気は一瞬で-100℃にまで叩き落とされ、新主任の持っていた『服従の杖』が、パキンと乾いた音を立てて粉々に砕け散る。
親兎が、地を裂くほどの重みで新主任たちの目の前に降り立つ。
彼女の周囲から伸びる太古の蔓は、まるで蛇のように、新主任たちの手足を締め上げ、彼らを地面に縫い付けた。
言葉は、必要なかった。
親獣たちの黄金の瞳には、ただ一言、こう刻まれていた。
――我らが恩人に、誰が触れてよいと言った?
150cmに満たない私の背後で、二頭の巨大な神が、静かな、けれど逃れようのない怒りを湛えて立っている。
私は、震える新主任を見下ろした。
バルトロと同じ。
いや、それ以下の、ただの哀れな人間。
「言ったはずよ、主任さん。ここは私の保育園だって。……そして、この子たちを守っているのは、私だけじゃないの」
私は、自分に縋り付くユキとルウの頭を、力強く抱きしめた。
心の中に、確かな勝利と、彼らへの深い侮蔑を込めて。




