第10話 ルウとの出会い②
調合台の上に、清潔なリネンを敷く。
その上に横たえたルウの身体は、指先で触れるのを躊躇うほどに脆くなっていた。
カサカサと乾いた音を立てる耳の葉。本来は栄養を蓄えてぷっくりとしているはずの肉球も、今は皺が寄り、弾力を失っている。
「……ひどい脱水ね。魔力の枯渇が、肉体の水分まで道連れに持っていったんだわ」
私は独り言を漏らしながら、手早く薬草の棚から「月見草の雫」と「潤い苔の根」を取り出した。
無理やり魔力を流し込むのは、今のこの子にとっては猛毒でしかない。
枯れかけた植物にバケツ一杯の水をぶっかけるようなものだ。まずは、この子が「受け入れられる」状態まで、その身体を解きほぐしてあげなければならない。
「きゅう……?」
足元で、ユキが不安そうに首を傾げた。
先ほどまでの敵意は、ルウから漂う「死の匂い」――生命力が希薄になった特有の無機質な気配――に押されているようだ。
ユキは私のふくらはぎに身体を預けながら、台の上のルウをじっと見つめている。
「大丈夫よ、ユキ。この子は死なせない。……あなたは、そこで少しだけ冷気を調整してくれる? 部屋を、早朝の森のように、涼しくて湿った空気にしてほしいの」
ユキは私の顔をじっと見つめ、それから小さく一回、短く「わふっ」と答えた。
彼女が意識を集中させると、部屋の四隅から薄い霧のような冷気が漂い始める。
それは決して肌を刺すような寒さではなく、熱を持った炎症を鎮めるような、慈悲深い涼やかさだった。
「いい子ね、ユキ。助かるわ」
ユキの協力を得て、私は本格的な処置に入った。
まず取りかかったのは、ルウの自慢であるはずの「耳の葉」の保湿だ。
私は、薬草を煮出した微細な蒸気を生成する魔導具を起動させた。
といっても、大掛かりなものではない。
私が前世の知識を活かして、美顔器をヒントに改造した、ほんの小さな加湿器だ。
温かな、けれど細かな粒子の蒸気が、茶色く丸まったルウの耳を包み込んでいく。
カチカチに硬直していた細胞が、ゆっくりと湿り気を帯びて緩んでいく。
その隙に、私は特製の「保湿バーム」を指先に取った。
これは魔力を帯びたミツロウに、鎮静効果のある青い花の精油を混ぜたものだ。
「……痛くないわよ。ゆっくり、ゆっくりね」
私の小さくて細い指は、赤ん坊のケアには最適のサイズだ。
大人のゴツゴツした手では潰してしまいそうなほど繊細な耳の裏を、私はミリ単位の力加減でマッサージしていく。
指先の体温でバームを溶かし、組織の深部まで浸透させる。
ぬりぬり。
永遠にも思える沈黙の中で、カサカサだったルウの耳に、わずかながら「色」が戻り始めた。茶色から、薄い黄色、そして産声を上げたばかりのような淡い若草色へ。
だが、表面的な保湿だけでは不十分だ。
問題は、冷え切り、活動を停止しかけている内臓だ。
私は深呼吸を一つすると、自分の着ていた厚手の上着のボタンを外した。
そして、台の上で震えているルウを両手でそっと掬い上げると、そのまま自分の胸元、シャツの内側へと滑り込ませた。
――人肌の温もり。
これこそが、どんな高度な加熱魔法よりも赤ん坊を安心させ、その生存本能を呼び覚ます「最強の薬」だ。
「っ……ひゃっ」
ルウの身体は、驚くほど冷たかった。
まるで氷の塊を抱いているような冷気が、私の肌を刺す。思わず身震いしてしまうが、私はさらに強く、けれど潰さないように、150cmの小さな身体を丸めてルウを包み込んだ。
私の心音を、直接ルウに聞かせる。
トクン、トクン。
「ここに命がある」というリズムを、直接細胞に教え込む。
「頑張って、ルウ。お母さんが、外で待っているのよ。……あなたは、あんなに綺麗な森を作ったじゃない。自分のことを、枯らしちゃダメ」
私は服の上から、ルウがいる場所を優しく撫で続けた。
私の体温が、ルウに吸い取られていくのがわかる。
代わりに、ルウの凍りついた魔力が、私の体温を媒介にしてゆっくりと融解し始めた。
足元では、ユキが信じられないものを見るような目で私を見上げていた。
彼女にとって、私の懐は自分だけの特等席だったはずだ。そこに、別の、しかも死にかけの赤ん坊が入っている。
ユキは「きゅう……」と、今まで聞いたことがないほど寂しげな声を出し、私の膝の裏に頭を押し当てた。
嫉妬。
けれど、その奥にあるのは、私への絶対的な信頼と、私が救おうとしているものへの、彼女なりの敬意だった。
ユキは不満げな鼻息を吐きながらも、部屋の温度調整を止めることはなかった。
それどころか、私が冷えすぎないように、私の足元からじんわりと、心地よい程度の冷気を保ち続けてくれている。
やがて。
私の胸元で、「ひくっ……」という微かな震えが起きた。
「……あ」
ルウの鼻が、動いたのだ。
干からびていた小さな鼻の穴が、懸命に空気を吸い込み、私の匂いを、そしてユキが運んできた森の気配を感じ取ろうとしている。
私は急いで、あらかじめ用意しておいた「若葉の滋養ゼリー」を取り出した。
森の清流の結晶と、数種類の薬草を煮詰めた、葉耳兎の赤ん坊にとっての最高のご馳走だ。
私は服の隙間から、ルウの小さな口元に、指先に取ったゼリーを運んだ。
「さあ、食べて。これは美味しいわよ」
ルウは最初、拒むように首を振った。
けれど、ネネの指から伝わる温もりと、ゼリーの芳醇な香りに耐えられなかったのか、おずおずと、その小さな舌を伸ばした。
――ぺろり。
私の指先を、熱を帯び始めた舌がなぞる。
次の瞬間、ルウは夢中になった。
「もにゅ……もにゅもにゅ……っ」
小さな口が、忙しなく動く。
ユキの「ちゅぱちゅぱ」が力強い「吸う音」だとしたら、ルウのそれは、春の訪れを告げる雨だれのような、優しくてリズミカルな咀嚼音だ。
指を動かすたびに、ルウの頬が膨らみ、鼻が激しく「ひくひく」と動く。
食べる。
それは、生きるという意思の表明だ。
「……よかった。本当に、よかった……」
私はルウを抱きしめたまま、安堵のあまり、ポロリと一筋の涙をこぼした。
私の小さな身体が、今は一丁前の「ゆりかご」として機能していることが、たまらなく誇らしかった。
ルウの耳が、パッと花が開くように立ち上がった。
鮮やかな、宝石のようなエメラルドグリーン。
それは、この小さな「園児」が、死の淵から帰還したことを告げる勝利の旗印だった。
―――――あとがき―――――
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