第9話 ルウとの出会い①
窓から差し込む午後の陽光が、石造りの床に暖かな刺繍を描いている。
私の膝の上には、銀色の毛玉――ユキが、まるで液体のように溶けて丸まっていた。
「……ふふ、本当に気持ちよさそうね、ユキ」
私は、150cmという、この世界では「幼女」と見紛うばかりの小さな身体を丸め、膝の上の愛子を愛でることに没頭していた。
私の指先が、ユキの耳の裏の、とりわけ柔らかい産毛を撫でる。
すると、ユキは「きゅう……」と、銀鈴を転がしたような甘い声を漏らし、私の指を小さな前足でぎゅっと抱きしめた。
そのまま、夢中になって私の人差し指を「ちゅぱ……ちゅぱ……」と吸い始める。
前世で、狂暴な猛獣たちの牙と向き合ってきた私にとって、この無防備な信頼の証は、何物にも代えがたい報酬だった。
フェンリル――銀嶺狼。
成長すれば、その一吠えで山を凍らせ、一走りで雲を割るという世界の守護神。
けれど、今の私の膝にいるのは、ただの「甘えん坊な赤ん坊」だ。
私の胸元に顔を埋め、独占欲を隠そうともせずに、私の匂いを一生懸命に吸い込んでいる。
「ユキ、そんなに強く吸わなくても、私はどこにも行かないわよ?」
私が苦笑混じりに語りかけると、ユキは吸っていた指をパッと離し、濡れた瞳で私を見上げた。
その瞳には、「わたしのママなんだから、他のどこも見ちゃダメ」という、真っ直ぐで苛烈なまでの独占欲が宿っている。
野生動物にとって、親を独占することは生存に直結する本能だ。
ましてや、この広い森にポツンと佇むこの「保育園」は、今の彼女にとって世界のすべてなのだろう。
私はそんなユキの頭を、壊れ物を扱うように優しく撫でた。
――その時だった。
穏やかな「ちゅぱちゅぱ」という音を切り裂き、大気が震えた。
ユキの身体が、一瞬で鋼のように硬くなる。
彼女は私の膝から弾かれたように立ち上がると、銀色の体毛を逆立て、窓の外を睨みつけた。
「……ユキ?」
「――うぅー……わんっ!」
ユキの喉から、今まで聞いたこともないような、鋭い警戒音が漏れる。
それは恐怖というよりも、自分たちの「聖域」に、圧倒的な格を持つ「何か」が近づいていることへの本能的な咆哮だった。
窓の外から、強烈な「緑の香り」が押し寄せてくる。
それは、春の草原を凝縮したような瑞々しい香り……いや、それ以上に濃密で、生命の重みを感じさせる土の匂いだ。
森の木々がざわざわと波打ち、まるで道を開けるように枝をしならせている。
やがて、その「主」が姿を現した。
巨大だった。
真っ白な身体は、ユキの母親であるフェンリルにも引けを取らない巨躯。
けれど、放たれる波動は冷気ではなく、生命を育む柔らかな熱。
「リーフ・イヤー・ラビット」――森の葉耳兎。
その特徴的な長い耳は、本物の木の葉が集まって形作られたかのように鮮やかな緑色をしており、風もないのに微かに揺れている。
彼らが跳ねれば土が肥え、彼らが歩けば枯れ木に花が咲くという、豊穣を司る幻獣。
「……なんて、綺麗なの」
私は思わず息を呑んだ。
だが、その感動はすぐに、プロとしての「危機感」に塗り替えられた。
親兎は、私を攻撃する意図がないことを示すように、家の前で静かにその巨躯を伏せた。
言葉は、話さない。
けれど、その瞳には、張り裂けんばかりの哀切と、祈るような色が湛えられていた。
彼女は震える前足で、自分の口元に抱えていた「何か」を、そっと私の足元の段差に置いた。
それは、小さな、本当に小さな毛玉だった。
「――っ、これは……!」
私は、ユキが「わたしのママに近づかないで!」と言わんばかりに裾を引っ張るのも構わず、膝を突いてその子を覗き込んだ。
「リーフ・イヤー・ラビット」の赤ちゃん。
本来なら、その耳は瑞々しい新緑の輝きを放ち、身体からは春の風のような香りが漂っているはずだった。
けれど、目の前に横たわっているその子は、自慢の「葉の耳」が茶色く丸まり、まるで秋の枯れ葉のようにカサカサに萎びていた。
真っ白なはずの毛並みは、内側からの衰弱を象徴するようにくすみ、呼吸は浅く、今にも止まりそうなほどに弱々しい。
親兎は、言葉にならない悲痛な音――「しゅん……」という掠れた声を漏らし、鼻先で我が子を私の方へ押しやった。
その仕草は、どんな魔法の言葉よりも雄弁に物語っていた。
『助けてほしい』。
『この子を、もう一度、緑の世界に戻してほしい』と。
私は親兎の大きな、けれど絶望に震える瞳を真っ直ぐに見つめた。
彼女は、世界の豊穣を守るという重大な役割を担いながら、たった一匹の我が子が枯れていくのを、救えなかったのだ。
自然の摂理を司る彼女たちの力は、あまりに巨大すぎて、こうした繊細な赤ん坊の「綻び」を繕うには向かない。
私は、親兎の眉間にそっと手を触れた。
私の手は、彼女の顔の半分も覆えないほど小さいけれど、そこに全精力の信頼を込めて。
「……任せて。あなたの願いは、確かに受け取ったわ」
親兎は、一瞬だけ安堵したように長く、熱い溜息をつくと、そのまま庭の木陰に深く沈み込むように横たわった。
我が子を預けるという、種を超えた究極の信頼。
この子の名前はルウ。ぱっと、その名前が頭に思い浮かんだ。
私は、震える手でルウ――この「枯れかけた新入り」を抱き上げた。
軽い。
水分を失い、魔力を使い果たしたその身体は、まるで中身のない脱け殻のように心許なかった。
「ユキ、ごめんね。今は、この子を助けるのを手伝って」
私が真剣な声で告げると、ユキは「……きゅう」と小さく鼻を鳴らした。
まだ納得はしていない。自分の大好きな場所を奪われた嫉妬で、その目はルウを厳しく見定めている。
けれど、私の必死な表情を読み取ったのか、ユキはそれ以上裾を引っ張るのをやめ、私の足元に寄り添うようにしてルウをじっと見つめ始めた。
保育園に、新しい波乱が訪れようとしていた。
言葉を持たない親の祈りと、小さな身体の飼育員。
そして、独占欲に揺れる銀色の赤ちゃん狼。
「……さて。急がないと」
私はルウを胸に抱き、急いで調合台へと向かった。
しおれた葉っぱを、もう一度輝かせるための、ケアが今始まる。




