それでも君の願いならば
真実を知ったレーヴェは動揺を隠せませんが、それでも彼の本質は変わりません。
トワは本当に愛されていますね。
「どうかこの地を彷徨う魂たちから解放してほしい。それは死者である貴方にしか頼めないことだから」
最初、トワの言葉を理解することができなかった。現実から逃げるためなのか急激に周囲の音が遠のいていく。
僕が、死者?
そんなこと有り得ない。確かに過去の記憶を遡ろうとすれば、必ず頭に靄が掛かったようになる。古城を訪れた日から前のことを思い出せない。でも――。僕はただ、あの日大切な何かを失ってしまっただけなんだ。
大切な、何か、を――。
「ごめんなさい。こんな大切なことを、最後の時になって伝えるなんて。本当は森で貴方を見つけた時にすぐに伝えるべきでした。けれど私は――貴方を利用したいと考えてしまったんです。そしてそのためには貴方にこの真実を気づかれてはいけませんでした」
「僕が、あの時から――? 君と出会ったあの日、すでに僕は死んでいたって言うの」
白い布で表情を隠している騎士やメイドさんたちさえ、僕の言動を見守っているようだった。彼らはとっくに知っていたんだ。僕が本当はあるはずのない存在だって。
同じ言語だとは思えない程トワの言葉は僕の耳をすり抜けていく。受け止められないほどの現実を前にすると都合よく意識が遠のくようになっているのだと僕は初めて知った。
「嘘……だよね。だって僕はこれまで普通に生活して来られたよ? ほら、手だって足だってちゃんとある。僕は今、ちゃんとここにいるじゃないか!」
トワの最後の願いは絶対に叶えてやりたいと、そう意気込んでいた自分はすでに失われていた。ただトワから発せられた真実を否定しようと普段よりも早口でまくし立ててしまう。けれどトワはそんな僕の様子を咎めることもせず、むしろ憐れむようにゆっくりと口を開いた。
「――ええ。貴方は自分が死んだことを完全に忘れ去っていましたから。より正確に言うならば、貴方はこの地で一度生を終え再び生まれ変わる前の魂。天に昇る前、この地を彷徨える貴方の魂は神木の力に触れて意図せず実体化していました」
人は生を終えると天へと昇り、また新たな生を受ける。けれど僕は天へ昇る前だったからまだ生まれ変わることは許されていない。おそらくまだ地上で彷徨える魂たちと同じようなものなんだろう。何の偶然か、実体化してしまったのが僕だったのだ。
ベアトリーチェに指摘されてから何か怖い予感のようなものはあった。
トワと初めて出会った始まりの日――それ以前のことを思い出せなくなっていたから。じゃあ僕は死んでいることすら忘れて、この古城で一年近く生活してきたっていうのか?
「ノエルは、気づいてたの?」
「あぁ。古城の奴らも半数近くはお前が死者だってことを見抜いていたな。ただオリバーやトワの御達しがあったのか口にはしなかったが。だからお前はトワに触れないようルールが課されてたんだろ?」
「私も途中で気づきましたわ。どんなからくりで貴方が実体化したのかは分かりませんが、貴方はすでに――」
――あぁ、そういうことか。ノエルの説明に納得した僕はようやく現実を受け入れる気になったようで、再び目の前の三人の声に耳を傾けていた。
『まったく、なんであんな奴をお選びになったのか』
『……しかし。あんな得体の知れない少年を選ぶなんて!』
初日――牢屋のような暗い部屋で手足を縛られていた時、騎士たちはそう文句を口にしていた。今ならその理由が分かる。彼らはクレスト家以外から候補が選ばれることよりも、僕のような死者が候補に選出されることに疑問を持ったんだろう。
そう言えば僕の周りには鏡がなくて服装をチェックすることが出来ずに、それも困ったんだっけ。僕は死者の魂だから当然穢れていて、神木の巫女様であるトワに穢れを身に纏った僕が触れることは当然出来ないわけで。
一つ一つの事をじっくりと考えれば自力でこの秘密に辿り着いていたかもしれない。いや、でもそんなことは起こりえなかっただろう。
まさか自分が死んでいるなんて考えもしないのだから。
「こんな僕でも――こんな穢れた魂の僕でも君の願いを叶えることが出来るの? この地や古城に囚われた人たちに夢見た未来を見せてあげられるの? ……ねえ、トワ。僕はここで真実を知ったことは、君の幸せに繋がるんだよね?」
ほとんど脅迫のような物言いだったと自分でも思う。ただすでに死んでいるという僕が何かに縋ろうとすれば、それはトワの幸福しかなかった。
僕はこれまで何度もトワに問いかけてきた。僕に関わる何かを隠されるのは当然心地の良い物ではない。けれどトワの事を幸せに出来るならって、そう信じていれば何も不安はなかった。
その真実は、僕が予想していた何よりも残酷なものだったけれど。
それが彼女の望む未来に繋がるなら。ここで現実を嘆いている場合じゃない。
思いのほか僕があっさりと真実を受け止めたように見えたのだろう、ノエルとベアトリーチェは何か言葉を掛けようとして開きかけた口をゆっくりと閉じた。
受け入れられたかと言われると違うかもしれない。けれど。
「ええ。貴方と出会って、貴方が私の傍にいてくれるって聞いて私は一筋の光を見たんです。ありがとうございます。ずっと隠し事をしてきた私を信じてくれて。貴方がいてくれたことで、この地は大きな選択肢を与えられた」
そう僕に告げたトワは何かを堪えるように顔を綻ばせていた。 初めて会った日、巫女様の部屋で見せたような微笑みとは違う。それは彼女の抱擁よりも、もしかしたら僕の心を温めてくれるものだったかもしれない。
ベアトリーチェがクリスマスの日に言っていたことはあながち間違いではなかったんだろうと、彼女の微笑みを愛おしく見ながら思う。僕は古城に初めてやって来た日に死んで、その記憶を失くしたせいで凍えた心を、トワで癒そうとしていたのかも。だからきっと、僕にとって望む未来は一つしかなかったんだ。
トワ、君が幸せになれる世界。君が少しでも僕と出会えて良かったと思える世界。そんな未来を選び取りたいって。
「分かった。こんな死者の僕で役立つのなら僕は何だってするよ」
難しいことは考えないようにした。僕の望みはトワの幸せ。そしてトワは死者にしか出来ない内容を僕たちに願った。それなら僕は、どんな現実でも受け入れよう。僕にしか出来ないことがあるんだって、それだけを一歩進むための勇気に変えよう。
「俺たちはレーヴェのフォローをすれば良いんだな?」
「お任せください、トワ。何も、心配する必要はありません」
これ以上口を開けば、こんな大事なことを隠し通してきたトワに対して文句の一つも声に出してしまいそうだった。そんな僕の気持ちを察してノエルとベアトリーチェは口を挟んでくれたのだ。
けれど全て、トワにはお見通しだっただろう。僕が真実に動揺していることも。トワに文句を言いたいことも。そしてトワにこれ以上悲しそうな顔をしてほしくなくて、むやみに言葉を紡ぎたくないと考えていることも。ただ彼女は何も言わず、黙って僕の瞳を見つめていた。
あぁ、彼女はこれから死ぬんだ。巨人のように膨れ上がった穢れを浄化するために彼女はその身を犠牲にする。それが、巫女様の変えられない運命。僕にはまだ彼女が消えてしまうのだという実感はなかった。クリスマスの日、その事実が伝えられたときも僕はそれを上手く理解することが出来なかった。あの時はたぶん、彼女がそんな大事なことを黙っていようとしたことへの怒りの方が大きくて。
トワが死んだら、僕はどんな気持ちを抱くんだろう。そもそも僕はすでに死んでいるのに、彼女の死を悲しむことは道理に合っているんだろうか。いや、そういう理屈の話じゃない。
僕はきっと、とてつもない喪失感を抱える。約一年、毎日のように見てきた彼女の姿がぽっかりと消えて、もうトワは僕に笑いかけてくれることもなくて、ふとした時に見せた孤独を感じることもできなくて。たた胸の奥がぎゅっと縮むように痛む。
「第一ライン、突破されました!」
「周辺の町へは踏み込ませませんよ。こちらの準備もあと少しです」
黒い霧のようなものを纏った騎士が森の方から走って来てオリバーさんの元に跪き、息絶え絶えに報告したが、その後周りの騎士に肩を担がれて城の中に入って行く。代わりに槍や弓矢を整備していた騎士たちが森に進軍し始めた。
彼らはいつも古城の見張りをしていた人々だ。あの巨人を前に少しでも抵抗しようとしているのだろう。完全に浄化するには巫女様の力が必要不可欠なのだと彼らは知ってる。それでも、ここで話し込んでいる僕たちのことは何も批判しなかった。彼らは同時に、大切な人との別れの辛さも知っていたからだろう。今この瞬間にもまるで身内を売りに出しているような感覚で胃がキリキリと痛む。
「そろそろ、限界。これ以上私の我が儘を押し通すわけにはいきません。オリバー、神木の周りの警備を」
人はこんな風にあっけなく傷ついて壊れていく。だからそんな人々を助けようとソフィアさんは自分を犠牲にしたし、トワだって今から消え去ろうとしている。
僕は向こう側にそびえる大樹に目を遣った。巨人が森を灰色に染めていくのに呼応するかのように内側から白い光を放っている。あの大樹に強大な力があったからこそ、この周辺の地は護られてきた。そして強大な力があったからこそ涙を流しながら決断した人たちがいた。きっとトワの決断もいずれは歴史の一部になっていくんだ。そして神木はまた何百年と僕たち人間を見守り続けるんだろう。
それなら神木よ、何故トワだったのですか。何千人といるこの地で生きる人々の中から何故トワを巫女になさったのですか。
僕は死に向かう大切な人を前に、届くはずのない言葉を胸の中で呟くことしか出来なかった。
レーヴェは何があろうとトワのことを最優先させようとします。
そんな彼だからこそ、トワは願いを託そうと思ったのでしょう。




