音もなくその日は忍び寄る
たとえ昔のことが思い出せなくても、トワの傍に居られれば良い。
半ば依存のようなレーヴェの想いは、彼女に届くのでしょうか。
外は思ったよりも寒かった。向こう側がすぐに見えなくなってしまうくらいには吹雪いてしまっている。
あぁ、僕が今考えていること全て、この雪で覆ってしまえれば良いのに。今日はクリスマス。――クリスマス、なんだ。僕がこんな不甲斐ない顔をしていたら駄目だ。それなのに、この胸に溢れてくる不安の渦は何なんだ。
キィッと錆びかけた鉄の音と同時、背後に人影を感じた。扉が開いたせいか足元に少しだけ暖かい風が吹いてくる。
「雪がきれい――」
ドレスの上から温かそうなストールを身に着けてやって来たトワはどこか疲れた顔をしていた。ベアトリーチェが助け出していなかったら、それこそ目が回るまでトワはダンスを断れないでいただろう。
「うん、また来年も見れるかな」
「……それはどうでしょう。来年、貴方がこの城にいるかは怪しいところですね」
「でも、クリスマスには遊びに来るよ。君が今日みたいにダンスパーティーを抜け出せば、こうしてバルコニーで会える」
「――それは無理。私は巫女ですから。候補でなくなった貴方と一緒にはいられない」
「候補でなくたって、友達じゃないか。僕はまた君に会いたいと思っているんだよ」
そう言うと、トワは少し困った顔になって僕の方を向いた。
「そうしたら、貴方は村から可愛い子でも連れてくるのかしら。貴方の子供にも加護を与えられるように、それまで神木が保ってくれると良いんだけど」
トワのこの頃の発言にはどこかベアトリーチェの影響が見え隠れしている。女性同士で仲が良いのは喜ばしいところだけれど、僕の反応に困るようなネタを入れてくるのは勘弁してほしい。そういう匙加減をトワはまだ知らないのだから。
「僕が子供を? 何年後の話だろう。まだ考えたこともないや」
僕はそう言ってからしまった、と口をつぐんだ。彼女が未来を語る時、そこには常に巫女様としての使命が付いて回る。その頃自分は使命を終えているのだろうか、それとも使命が来ないまま人としての寿命を終えるのだろうか、と。どちらにせよ、彼女の未来に僕のような自由などなかった。
トワは僕の表情から何かを悟ったのか、不自然に顔を逸らし、バルコニーの手すりに小さな手を置いた。
「そうね、いつかはみんなここを離れていく。きっとまた新たな候補が来て、私は彼らから世界を教えてもらう。……その繰り返し。貴方たちはその一人に過ぎない。そして貴方たちもまた、いずれ新たな生活を始めるでしょう」
トワはこの城から自由に出ることは出来ない。ここに候補として訪れる者たちが世界の全てであり、ましてや結婚や子供を産むなど考えたこともないだろう。僕たちはいずれ忘れてしまうんだろうか。変な慣習に縛られたこの古城のことなんて忘れて、普通に生きていく日々が訪れるのだろうか。
彼女がこんなにも寂しそうに雪を眺めているのさえ忘れて。
「ごめんなさい、貴方に言うことではなかった。私はその代わり、貴方とは比べ物にならないほど強大な力を手に入れました。それは何よりも人が望んでいる物だから」
「……そんな、こと」
人がたとえどんなに願おうとも、彼女のような力を授かることは出来ないだろう。けれどその代わり、僕たちは自分が選んだ未来を歩むことが出来る。この閉じられた空間に縛られることもない。こんなにも何かを諦めたような表情をすることもない。
こんなにも普通の女の子のような会話が出来るようになって。やっと友達らしくなって。それでも彼女は巫女以外の何者でもないんだ。
ない物ねだり。
喫茶店でノエルが呟いた言葉が頭の中で何度も再生される。
「貴方は私がこれから出会う候補たちの一人。そして貴方もこれから何人もの大切な人だと思える存在に出会える。私にばかり、感情を寄せては駄目。私にそんな同情を抱いてはいけないわ」
「……っ!」
僕は思わずトワを手すりに追い詰めていた。彼女は逃げ道を封じた僕の腕を驚いたように見つめている。僕だってこんな強引な真似をするつもりじゃなかった。ただ、トワの態度に耐えられなくなったんだ。
寂しいのなら、寂しいと言ってほしい。言っていることと彼女の表情に出る心の叫びがまるで正反対だ。そんな悲しそうに笑わないでくれ。そんな不安そうに未来を語らないでくれ。そんな哀れんだ目で僕の幸せを願わないでくれ。
どうしたら良いのか、分からなくなる。
「そうやって君はいつもいつも他人に興味がない振りをして! 自分が一番に望んでいる物を遠ざけようとする! 君が幸せになって誰かが怒るのかい? 誰かが傷つくのかい? 君にとって僕たちは、そんなに小さな存在なの」
トワは目を見開いたまましばらく動かなかった。
小さく細い肩に降りこんだ雪が少しずつ積もっていく。
周りの村にまで加護を与え、穢れを引き受けているのだという神木。そして古城の裏に根付くその神木から神気の一部を授かった巫女様。――強大な力を持っているのにそれを自分の幸福のために使うことすら許されない人物。
彼女はいつも他人の幸せばかりを願って、僕たちのために生きようとする。そして誰よりも傍にいてくれる人を望んでいるのに、自分の感情に気づかぬ振りをする。まるで何かに怯えているように。
僕の手にも雪が舞い降りて、かじかんできた。けれどここで引き下がるつもりはなかった。トワはこの機会を逃してしまったらまた、その感情を隠してしまいそうだから。
「ねぇ、応えてよ、トワ」
トワはやはり何も答えなかった。
ずるい。僕のもどかしさも苦しさも、全部分かっているはずなのに一定の距離を保ち続ける。他人の事のようにやり過ごそうとする。僕のことも、ただの候補の一人だと過ぎ去って行く一日のように目を閉じようとする。
そうやって凍え切った心を抱えていながらも僕の名前は決して呼んでくれないんだ。
分かっていた、それが彼女に課された残酷な運命なんだって。この古城に縛られた彼女にはそうする他に納得する方法がないんだって。
けれど、僕は。僕はトワにこんな表情をさせたくて候補になったんじゃない。最初の候補があのアシュリー・クレストさんだと言うのなら。候補を作った人は、巫女様という残酷な役割を課された少女の心を守り、世界を教えたいと願ったんじゃないのか。
それならトワのことをもっと支えてやりたい。自分の心に蓋をしなくても生きて行けるように、僕が傍にいてやりたい。
――そう、この気持ちはトワへの固執なんかじゃない。失った何かを埋めるための想いじゃない。もっと、もっと大切なものだ。
だからこそ、この気持ちを言葉にするのにはためらいがあった。ずっと心のどこかで否定し続けてきた。けれど今、その想いはのどを震わせて。
「トワ。僕は君のことが好きだ。この世界で一番大切な存在なんだ。だから君の力になりたいと思う。候補しても僕個人としても、君を支える存在になりたいと思う! トワ――だから、君の本当の気持ちを聞かせてほしいんだ」
トワは青い瞳を伏せ、黙り込んだ。それは何か答えを探しているようにも、僕が立ち去るのを待っているようにも見える。結局ベアトリーチェの言う通り、直接同じようなことを伝える羽目になってしまった。その反応は僕が予想したものと全く違ったけれど。
「……ごめん」
沈黙に耐えられなくなって、僕はかじかんだ腕を手すりから離した。
何もこんな寒い所で問い詰めることではなかった。彼女の手がこんなに寒さで紅くなっていても、僕はその手に触れて温めてやることさえ出来ないんだ。
僕だけが、トワに触れることすら出来ない。君のことをこんなにも想っているのに。
「私は、ね」
そんな僕の心を照らす光のようにトワは小さな声を絞り出した。何かに縋るように、彼女はゆっくりと顔を上げて僕を見つめ。
「候補に気持ちを寄せすぎてはいけないの。『来るべき時』に私の心を守るためには、貴方のことを想ってはいけないの」
「そんな! だって候補は君を支えるために!」
「……そう。候補は『来るべき時』に巫女を支えるために存在する。でも、私は」
まるで時が止まったかのように僕の中から彼女の声以外の全ての音が消えた。寒さに震えた彼女の唇がそっと、言い聞かせるように言葉を紡ぐのを僕はただ茫然と見つめていた。
「私は、『来るべき時』が来たら、死ぬのよ」
ついに「来るべき時」に何が起こるのか、その断片がトワから語られました。
その内容がどれだけ理不尽でも。どれだけ残酷でも。
それはトワにとって、たった一つの「ここにいる意味」なのです。




