そして僕は決断する
なぜこんなにも大切に想っている人に触れることすら許されないのでしょう。
レーヴェが彼女にしてあげられることはあまりにも少なくて。
けれど同時に、とても貴重なものなのです。
トワに異変があったのは森の中に入って半分ほど来たところだった。「きゃっ」という小さな悲鳴と共に木の根につまずいて転んだのだ。
「大丈夫? トワ」
「ええ――」
慌てて土を払って起き上がろうとする彼女だけれど、その息は単に転んだだけとは思えないほど荒い。おそらく熱で意識が朦朧としてきた所で躓いたんだろう。この状態ではあと半分森を歩かせるのも憚られた。
「トワ、少しここで休もう。このままじゃ君、城まで歩けないだろう? 僕は君を背負うことは出来ないし」
素直に従ったトワを適当な切り株に座らせ、二人で城から持って来た水を口に含む。森の中はあまり日差しが入らないせいか村よりも幾分涼しかった。
トワの様子は先ほどよりも少し落ち着いたものの、やはり村長の所から戻ってきた時に比べて悪化している。巫女様は神木の影響を受けると聞いたことがあるし、そうならば僕に出来ることは尚更なくなってくる。
どうしよう。このままノエルとベアトリーチェがこの森を通るのを待って城の人を呼んできてもらおうか。いや、時間が読めないし、二人がもし行きと違うルートで森を通ったなら会えない可能性も高い。
見る限り草花に虫が群がっているだけで動物の足跡はない。たしか僕が山菜を採りに行った場所と繋がっているはずだけど、そこも狂暴な動物が出るという注意は聞いたことがなかった。ここにトワを置いて行ったとしても、少しの間なら危険はない。
「トワ、このままちょっとだけ待っていてくれるかな。僕がひとっ走り城まで戻ってオリバーさんと相談するよ。何か物を使えば君を城まで運べるだろう?」
トワは何も言わず俯いたままだった。体調が悪くて話すのも辛いのかもしれない。返事がないことは拒否ではないと判断し、僕は立ち上がって城の方に数歩足を進めた。
その時だった。首筋に、電流が走ったような鋭い痛みを感じたのは。
「うっ」
思わずその場にしゃがみこんでその痛みをやり過ごす。五秒も数えれば徐々に痛みの波は引いていく。
もしかしてこれ、オリバーさんやノエルの時と同じ……?
トワの方を振り返ると彼女は悲痛そうな面持ちで僕のことを見つめていた。
「トワ……?」
びくんと怯えたように肩を震わすトワ。そうだ、彼女は今、一瞬僕の表情を見ただけで分かってしまったんだろう。僕がトワを「怖い」と感じたことを。
拒絶しては駄目だ。巫女様として普通の人間にはない特別な力を授かった彼女のことを遠ざけて孤独にしては駄目だ。
そう思うのに、また口が開いてくれない。
『お願い、行かないで。ここにいて頂戴』
トワの声が直接頭に響く。
――どうして今まで誰も教えてやらなかったんだろう。城の人々はみなトワに心の中を知られることを恐れ、布で顔を隠した。候補のベアトリーチェやノエルでさえ、トワのことを巫女様としてしか扱わなかった。だからトワは知らないんだ。
他人との関わり方を、彼女は知らない。
「分かった、どこにもいかないよ。君の傍にずっといるから」
この森に一人残されてしまうことが寂しくて、トワは僕にここにいてほしいと思った。よく病気の時は気が滅入るというけれど、彼女も今そんな感じなのかもしれない。けれど彼女は人を引き留める術を知らなかった。
寂しい。どこにも行かないでほしい。
だからトワは痛みを与えてこの場に留まらせようとした。そんなことをしなくてもただ一言伝えてくれれば僕はここに残ったのに、彼女はその想いを伝える手段を考えたことがなかった。だってそれは、人との関わりで自然に覚えていくことだから。
城の人々はずっとトワのことをただ畏怖し、遠ざけてきた。その結果がこれだ。
「でもね、トワ。こういう時は痛みではなくて言葉でその想いを伝えるんだよ。君が僕に直接語り掛けてくれたように。さぁ、その口で言ってごらん」
トワの方に戻りしゃがみこんで視線を合わせる。怒っているわけではないことを示すために。
「お願い、行かないで――ここに、いて。レーベに傍にいてほしいの」
「うん、分かった。トワが落ち着くまでここにいよう。ね?」
トワはコクンと頷いてうっすらと滲んだ涙を拭う。
こうやって一つ一つ教えていくしかない。少しまだ硬い言葉だって僕たちと話している内に馴れてくる。頭に直接声を届けなくても伝わる想いがあると分かってくれる。たとえ触れ合えなくても、それくらいなら僕が教えてあげることは出来る。
――いつまで僕が古城にいられるかは分からないけれど。
「じゃあ、はい。本当は城に着いてから渡す予定だったんだけど、プレゼント。トワが今、少しでも元気が出ますように」
地面に片足をついてまるでプロポーズのように箱を差し出してみる。
先ほど店で買った海の色の髪飾り。木々の間からこぼれる光がキラキラと髪飾りに反射して店で見るよりも輝いて見えた。
「あっ。これって――」
「さっき君が熱心に見ていただろう? 絶対に君に似合うと思ったんだ」
「う、嬉しい――」
手で口元を隠しながら目を細めるトワの様子を見て、やっぱり買っておいて良かった、と安堵する。彼女のこの表情が見れたのなら、それだけで満足だ。
「オリバーさんに頼めば好きな物を買ってもらえるんだろうけど、僕がトワに贈りたかったから。今日のことを思い出してもらえるかなって思って」
「ええ……ええ――!」
箱ごとトワに手渡そうとして、ふと彼女に付けてあげることは出来ないだろうか、と思い当たる。彼女に触れてはいけないという掟。それはどこまでなんだろう。
「あのさ、トワ。もし許されればなんだけど、君の髪に付けてみていいかな」
あ――、と少し困った顔をするトワ。しかし数秒宙を眺めて考えた後、何も言わず首を縦に振った。身体は駄目でも髪だったら、と考えてくれたんだろう。オリバーさんにばれると面倒だから黙っておくことにしよう。
首筋に触れないように気を付けながらトワのふんわりとした髪を持ち上げると甘い香りが広がった。髪の間から白い肌が覗いて何とも落ち着かない気分になってくる。
「はい、出来た」
右側の頭頂部付近に四分の一ほどの髪を掬い取って髪留めを付けてやる。ここに鏡がないのが残念だけど、とてもよく似合っていた。
「……初めてだからとても嬉しい。ありがとうございます、レーベ。城に帰ったら一番に見てみます」
「うん。とても似合っているよ。気に入ってくれたようで良かった」
引き留められてから優しく接したのが良かったのかトワは安心したように口元を緩め、小さな足をぶらぶらと揺らし始めた。僕の方もプレゼントを渡したのはいいものの、それからどんな行動をとれば良いのか分からず口を閉ざすしかない。
沈黙の中、小鳥が木の枝に止まり鳴き声で仲間を呼んでいるのが聞こえてくる。
もしかしてノエルなら、上手く会話を続けられたのかな。四か月が経つけれど、僕はトワのことをそんなに深く知っているわけではない。トワは僕のことをどんな風に思っているんだろう。こうやって僕と過ごして少しでも楽しいと思ってくれているのかな。
「二人きりで話すのは結構珍しいよね」
「ええ。大抵はベアトリーチェとノエルが同じ部屋にいますから」
城では一人につき一つの部屋をもらっているけれど、何故か大広間に集まることが日課になっている。全員で話すこともあれば一人で集中して本を読むこともあるけれど、四人が同じ空間にいることに変わりはない。
「そういえばさ、装飾店の店主が言ってた時にふと思ったんだけど、トワの誕生日っていつなの?」
「誕生日――ですか。一応、十二月二十五日ですね」
「クリスマスじゃないか。って言うか、一応って何?」
「巫女は神木の力を授かった存在で厳密に言うと人ではありません。そう考えると――」
「いや、待って、トワにはお母さんがいるよね?」
「ええ。私が巫女としての自覚を持ち、城を訪れた時点で私を産んだ記憶はなくなっていますが」
「じゃあ君は立派な『人』じゃないか。巫女様に関する理みたいなものに関しては全く分からないけど、君は僕と同じ『人』で、誕生日は十二月二十五日――だろう?」
そう言い切った僕の顔を覗き込みトワは不思議そうな表情を浮かべた。
「本当に貴方は変わった人。でもその心遣いがどれだけ私の心を高揚させたか分からない。こんな風に言ってもらえると、とても嬉しい。私がどれだけ自分のことを定義してもそれは自己満足でしかないから」
あぁ、どうして。
集まってきた小鳥が大合唱をする中で僕は改めて巫女様という制度に腹を立てていた。
こんな少女が背負いきれる業ではないだろうに。
「最初に会った時も貴方は不思議な人だった」
四か月前のあの日を思い出しているかのようにトワは座ったまま森の木々を眺め、ぽつりと呟いた。
「この森で初めて会って、私のことを何も知らないのに気に掛けて城まで付いて来てくれた。貴方なら私が巫女という特別な存在であることを知っても『私』を見てくれる――そんな予感があった」
「それが、この地に新たな可能性を示すって信じてくれた理由?」
忘れもしない。僕が候補になる決断をしたときトワはたしかにそう言った。具体的に僕に何が出来るかなんて今になっても分からない。ただベアトリーチェやノエルのような伝統的な家柄とは無関係の僕が候補になったことの意味を示したいと思い、トワの言葉はずっと胸の中にあった。
「――覚えていたのですね。けれどその質問の回答は、いいえ、です。私は貴方という存在が来るべき時に新たな選択肢を生み出すと思った」
来るべき時、か。僕が古城に来てから何度この言葉を耳にしただろう。
城のことについて聞いても、候補について聞いても巫女様について聞いても全て「来るべき時」のためだとしか教えてもらえない。
まるでその時何が起こるかを口に出すのが憚られているように。
「その『来るべき時』についても僕が知ることは出来ないんだよね」
「ええ。その時何が起こり、何が必要になるのか。そのことを詳しく知っているのは私とオリバーだけ。貴方たち候補に伝えることは許されていません」
「オリバーさんも、知っているんだね」
「ええ。彼は私が巫女になる前からあの城にいます。幼い私を出迎えてくれたのも彼だった」
トワが巫女様になってからもう十年は経っているらしい。それならオリバーさんはいつからあの城に囚われ続けているんだろう。見た目は三十代半ばくらいだと思っていたけれど、もしかしたら実際はもっと年上なのかもしれない。城の人々がオリバーさんを信頼しているのは、城にいた時間が長いということも関係しているんだろう。
「ねぇ、トワ。じゃあ君は『来るべき時』がいつ来るか知っているのかい?」
「――いいえ、具体的な時間までは。これまで何代もの巫女が待ち続けたけれどその時は来なかった。けれど今日、巫女としての儀式を行って一つ分かったことがある」
トワはそこで一旦言葉を区切り、まるで僕を試すような目でこちらを向いた。
「『来るべき時』はあと一年も経たないうちにやって来ます」
一瞬息を呑んで彼女の言葉を反芻する。僕にはその時何が起こるか分かっていないのに、胸の動悸が収まらない。何だろう、この嫌な予感は。何かに追い立てられているようなこの感覚は、いったい何を示しているんだ。
「今日、私はあの村の穢れを一部神木に引き取る儀式をしました。その儀式自体は他の村でも何度も行っているもの。けれど穢れを引きうけた瞬間、神木がかつてないほどその力を弱まらせた。結果、それが私の今の体調に繋がっています」
「じゃあ今、君は神木の影響を大きく受けて――」
「そう。貴方たちが言う『風邪』に私は罹らない。その代わり神木が弱れば私の体調にも影響が及ぶのです」
つまり神木が今までと比べて深刻なダメージを受けているということだ。穢れが具体的にどんなものなのか想像もつかないけれど、蓄積されていくものなのであれば、神木がそれを受け入れられなくなる時こそ『来るべき時』なんじゃ……。
動揺する気持ちを抑えるために大きく深呼吸をした。森の中に流れる新鮮な空気が肺を潤す。
……これも、あの神木のおかげなんだろうか。
初めてあの神木が真下から見える場所に案内された時、思わずその場で腰を抜かすかと思った。
人が十人以上縦に並んでもまだ届かないであろう大樹。そしてその根からは蒼い光の粒が湧き上がってきている、本当に幻想的としか言いようがない光景。トワの存在を知らなくてもあの大樹を見れば神という次元の存在を感じずにはいられなかった。
「私は数日もすれば治ります。けれど神木は――どれだけ回復するか分からない」
「そうやって穢れを引きうけ続けた神木はどうなるんだ? まさか全部を浄化できるわけじゃないだろう?」
「そうですね。でもその先を貴方は知っているのではないですか。或る者の手記によって」
「……っ、君は知って――!」
あの本を見つけたことは誰にも言っていないはずだった。まるで誰かに呼ばれるようにその本を見つけたことも、見つけた時になぜか胸が熱く感じられたことも。
「そう、その手記は神木について或る者の視点で事細かく語られている。その本には書いてあったでしょう? 例えば、『大樹の力を使って戦争に勝利をもたらそうとしている国の話』とか」
「……っ!」
トワに核心を言い当てられた形になり、僕は思わず目を逸らした。トワは僕の表情から読み取っているのか? それとも、その話を元々知っていて鎌をかけたのか? どこまでトワが知っているのか分からない。けれど、彼女の言っていることは間違っていない。
僕の部屋の隅に隠されていたあの本はまるで実際にその出来事を体験しているかのような臨場感と共に、今まさに戦争を始めようとする国の話について記されている。そしてその国の王は大樹――神木の力を使って兵器を動かそうと目論んでいた。
話に出てくる王宮や大樹、そしてその神木を守る巫女様があまりに僕のいる古城の環境に似ているから気になってはいた。ただそれは作者が勝手に作り出した御伽噺だと思っていたのだ。
「やはり貴方はその本に巡り合っているのですね。――貴方なら見つけてくれると思っていた」
「いや、待って! あの本がどうして隠されていたのかとか、聞きたいことはたくさんあるよ。でもとりあえず、まだ僕は穢れを受けた神木がどうなるかなんて知らないよ!」
「いずれ、見ることになるでしょう。その手記が貴方を選んだのなら」
「――あれは、過去の出来事なの? 少しずつしか先を見ることが出来ないあの本は過去を僕に伝えてくれているの?」
トワはふわりと口元を緩めた。まるでその微笑みはこの世のものとは思えないほど美しい天使のようで。
僕がプレゼントした髪飾りがそよ風にそっと揺れる。
「ねぇ、レーベ。どうか迷わないで頂戴。貴方がその手記を通じて過去の出来事を知っても、どうか誰のことも責めないで頂戴」
表情とは裏腹に苦しそうに絞り出されたその言葉は、まだ何も知らない僕にとってはただの冗談にしか聞こえなかった。
太陽が西に傾いた頃、森まで帰って来たノエル、ベアトリーチェに事情を説明し城からトワを運ぶための大きなシーツを持った騎士を呼んで来てもらった。城で様子を見たオリバーさんの話では数日も休めば元通りになるだろうということだった。
トワに無理をさせてしまった、という後悔を胸に自室に戻り、日記を開く。すでに四か月分の古城での思い出がここに記されていた。トワ、ノエル、ベアトリーチェという「友達」と過ごした大切な時間が。
僕はいつまでこの古城にいられるんだろう。最初は両親の元に帰れないことがあれだけ不安だったのに、今ではあの三人と離れたくないという気持ちの方が大きくなっている気がした。
八か月後の四月、僕はトワから候補を続ける旨の声明を受ければもう一年この古城に留まることが出来る。せめてトワが予測した「来るべき時」が訪れるまでは彼らと一緒にいて少しでも力になれればいいのに。
そして机にはもう一冊分厚い本が置かれている。
「或る者」が書いた手記――その本は相変わらず一日に数ページしか続きを見せてはくれない。ただトワが言うように、隠されていた手記に僕が引き寄せられ「手記が僕を選んだ」のなら、何か伝えたいことがあるはずだ。そしておそらく、そこで知る何かが「来るべき時」という謎への手掛かりになる。
トワやオリバーさんはきっとその謎について教えてはくれない。ただ僕がトワの力になるためには、それを事前に知っている必要があるんだ。そうじゃないと今日のように、彼女の異変にすぐ気づくことが出来ない。
手記が語る過去を読み解き、トワの手助けになることを考えたい。
その想いが、次の日からの僕を動かす原動力になった。
君を失うまであと百七十三日。僕は君の力になりたくて、手記と日記を大事に抱え込んでいた。
レーヴェは決断しました。
来るべき時に何が起ころうと、トワの味方になることを。
そしてその選択は、未来にもう一つの道を示すのです。




