第26話
8月3日。
午前中だけ授業を受けて、その後は昨日と同じで鏡原さんと一緒に昼食をとってから海で泳いでいた。
レンタルしたボディーボードの上に寝そべって鏡原さんがぷかぷかと波間を漂っている。僕はその周りを体を鍛えるつもりでひたすら泳いでいた。
プールと違って身体が浮くので、足が届かない場所でもそんなに恐怖心はない。
「ねぇ~あんた飽きないの?」
「誘ったのはそっちじゃないか」
鏡原さんは眠そうにとろ~んとした目をしていた。食後の日向ぼっこで気持ちいいのはわかるけど、気づけば沖に流されていたなんてことがないようにしないと。
やっぱりこの人を一人にはできない‥‥‥僕は保護者か。
「ちょっと休憩したら?」
「そうする‥‥‥」
もう30分近く海の上だった。
その間、疲れたらボディーボードにつかまって休んでは泳ぐを繰り返しているんだけど、何かと問題が多かった。
「なんかいいよね。何も考えずにただぼーってするの」
鏡原さんはうつ伏せの状態で、顔がビーチの方へ向いていた。なのに反対側の僕の方へとわざわざ向きを変え小さな笑みを浮かべて言った。
「う、うん‥‥‥」
「どうしたの?」
「別に‥‥‥何も‥‥‥」
互いの顔が近すぎて、僕としては見つめ合っているような感覚だった。鏡原さんの体から漂う甘い匂いに鼻腔を刺激され、彼女の小さな息遣いまでもが聞こえてくる距離。だからといって頭とは反対側―――足に近い所に掴まれば、もっといけない光景が飛び込んできてしまい‥‥‥結果として彼女の頭に近いところにしか僕の掴まる場所はなかったのだ。
「はぁ~~~最高~、眠くなってきたぁ」
鏡原さんの吐息に思わず目をそらした。でもその先には、黒いビキニに包まれた太陽の光に眩しく輝く小麦色の肌があって―――。
慌てて視線を戻すと鏡原さんの顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
「やっぱなにかある?」
「べ、別に、なにもないって‥‥‥!? ただ、来週で最後だなって考えてただけで」
恥ずかしくらいに動揺してしまった。それだけ鏡原さんのことが綺麗に見えて―――とても海が似合っていた。
自分でも意識しすぎだと反省しつつ、話題を変えるために来週の予定について触れると鏡原さんがポツリと零した。
「帰りたくない」
「うん」
最初は帰りたい気持ちが強かったけど、今は同じくらい帰りたくない気持ちが膨らんでいた。だから僕は短く相槌を打った。
鏡原さんはなんで合宿に参加したんだろうか? 僕は彼女が勉強するところを全く目にしていない。何か事情があるみたいだけど、昨日までの僕は赤の他人が理由を訊ねてはいけないと考えていた。
でも今は、知り合って間がない僕たちだからさこそ本音を語り合うには都合がいい場合だってあるように思えて―――。
ようするに、あと腐れのない関係。合宿が終われば、そこで僕たちは別れてしまう。たぶんもう二度と会うことはないのだから。
「ここに来た理由、聞いても大丈夫?」
顔と顔が近すぎるけど僕は思いきって鏡原さんの目をまっすぐ見つめたまま訊いた。すると彼女は少し驚いたような表情を見せてから、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「私の両親は医者なの。歳の離れた兄は今年試験に合格して‥‥‥私も当たり前のように勉強して将来は医者になるんだって思ってた。でも色々やりたい事が増えてきて、勉強についていけなくなって‥‥‥それなのに両親の期待だけは大きくて」
「鏡原さんの将来の夢って‥‥‥?」
「医者‥‥‥なのかな? 両親が医者だからそう思ってただけなのか、私自身がなりたかったのか、もうわからなかくなった。だから気持をリセットするために両親には内緒で勝手に申し込んでここに来たの」
「今ごろ大変なことになってない?」
「兄さんには連絡してるから、それはない。もう医者になるっていう両親の期待っていうかプレッシャーにはもう耐えられそうにない、かな‥‥‥」
「‥‥‥」
鏡原さんが少し寂しそうな表情で絞り出すようにして語った本音に、僕は何一つ答えを持っていなかった。
彼女だって最初から僕みたいな他人のアドバイスなんて求めていないだろうに‥‥‥それでも無言でしか返せない自分自身が情けなかった。
僕の沈黙の間に鏡原さんが話を続けた。
「やりたい事が色々あるって言ったでしょ? それも全部中途半端でさ、私何やってんだって‥‥‥、ひゃくさきはあるの? 夢―――」
「‥‥‥今は、ないよ」
「ふふ、正直」
「今は自分の中でも色々と曖昧で、だから探してる」
「見つかるといいね」
「お互いに」
「はぁ~、なんかさ、こういう話を誰かとするの初めてなんだ。もしかしてあんた私に興味でてきた? 今口説かれてる?」
鏡原さんの表情が元に戻った。ここは乗っておこう。
「わかる?」
「‥‥‥ぷっ、あははは、見た目が変わると冗談上手くなるの? あはは‥‥‥」
「そんなに笑うかな」
「そういうこと軽く言ってると、重い女に引っ掛かるんだから」
鏡原さんからジト目を向けられ、頭の中には妹を筆頭に何人かのよく知ってる顔が思う浮かんだ訳だけど。
「ね、下の名前教えてよ。ひゃくさきかももさきかわからなくなってるし」
ワザと間違えてるくせに。でもそんな彼女も僕に興味を持ってくれたのかもしれない。そう思うと悪い気分ではなかった。むしろ喜んでいる自分がいて、そのことを自覚した途端ものすごく胸の内側がざわついた。
知り合ってからほんの少ししか時間は経っていないけど、それでも本音で話ができる関係。他人との向き合い方次第で本当は時間なんてあまり重要なことではないのかもしれない。
鏡原さんが言ったようにこの離島での夏期講習は来週の金曜日が最終日だ。
自分自身を見つめ直すには、時間が少ないと思っていたけど、鏡原さんとの出会いこそが陰キャだった僕の、世の中のことなんて何一つ理解していなかった僕の、成長する切っ掛けになるような予感がしていた。




