第27話 お姉ちゃん、濡れちゃう
8月4日、土曜日の午後。
週末のビーチは、平日と比べて沢山の人で賑わっていた。そのせいで昨日レンタルしたボディーボードは全て貸出し中だった。
「郁人のせい。午前中から来てれば借りられたんだけど」
「しかたないよ」
昨日の今日でもう下の名前で呼ばれていて‥‥‥妹で慣れているつもりだったけど、やっぱりギャルの距離感には戸惑うばかりだ。
「さすがに朝から海っていうのは‥‥‥気が引けるかな」
「いまさらでしょ。来週で最後だから楽しも」
そう言ってから隣を歩く鏡原さんが自分の肩を僕の肩に当ててきた。そんな不意打ちをくらい動揺しない訳がなく、真っ白な砂浜に足を取られて転びそうになった。
「―――うおっ!?」
「なに? 大げさ。しっかり歩きなさいよ」
鏡原さんは人の多さを愚痴っていたけど、なんだかとても楽しそうに見えた。人を寄せ付けない雰囲気がどこかに消え、僕たちの間には知り合いから友人になったような、そんな空気感が生まれていた。
ビーチの端まで歩くと人がまばらになる。
僕たちは木陰を見つけて腰を下ろした。
「ちょっとむかつくんだけど。なんで昨日の流れで聞いてこないかな。やっぱり私に興味ないのね」
「えっ!? いや、な、何のことかな‥‥‥」
正直なところ気にはなっていた。僕も訊いたほうがいいのかなって‥‥‥。
でも、なんだか鏡原さんに便乗するような―――男としてとても軟派な行為に思えてしまって。
「下の名前」
「聞こうと思ったけど、その、なんというか、タイミングがあれで」
「いやそのタイミングだったでしょ! 聞きたい?」
「まあ、正直後から思ったよ」
「じゃあ特別に教えてあげるから」
鏡原さんには口が裂けても言えないけど、今日の彼女は『人間を警戒していた捨て犬が懐いた』感が強い。
それとも、最初から男と見られていないのか? 鏡原さんが知り合った頃と打って変わってグイグイくる。
「あ、ああ‥‥‥じゃあ名前を―――、あっ!? あれは‥‥‥!!!」
「なっ―――!? 急になんなの?」
「―――こっちに歩いてくる。担当の武波さんだ。間違いない‥‥‥」
僕たちの方へまっすぐ歩いてくる真っ白な水着姿の女性が見えた。遠目にも尋常じゃない胸の膨らみが揺れているのがわかる。
あれは着やせって言葉では説明がつかない。
「―――痛っ!」
突然、鏡原さんに足を踏みつけられた。
「郁人‥‥‥あんたどこ見てるの?」
「いや、ちがくて‥‥‥。それより逃げないと」
鏡原さんも武波さんの存在に気が付いた。
「見回り‥‥‥まだ泳いでないからセーフじゃない」
「それは予備校側が判断することだから」
「‥‥‥確かに」
普段投げやりな態度の鏡原さんなら、バレても平気って言いそうなのに‥‥‥僕と一緒でまだここに残っていたいと思ってくれているのなら―――。
「逃げよう」
「うん」
僕は鏡原さんの手を取った。彼女も強く握り返してきて一緒に立ち上がる。
今いる場所はビーチの端で、ごつごつとした岩場が逃げ道を塞いでいた。
武波さんを避けて逃げるとなれば海に入るしか方法がなくて―――気が付けば武波さんの姿がすぐそこまで迫っていた。
「退校処分になったら責任とってくれる?」
「いやそれこっちのセリフだから」
「ふふ、あははは‥‥‥」
「笑いすぎ」
状況的には見つからずに逃げられそうになかった。僕たちは覚悟を決めて向かってくる武波さんの方に体を向けた。
真っ白な水着姿は迷いなくまっすぐこっちに向かってくる。
「―――姉貴!!」
もうダメだと思った瞬間だった。誰かを呼ぶ大きな声が聞こえて、それに反応したようにFクラス担当の武波さんが大きな胸を揺らして立ち止まり後ろを振り返った。
僕も声がした方向に目をやる。
「ごめんねぇ~陽ちゃん、水着が少しきつくてぇ~。それに少し迷っちゃったぁ」
「ボディーボードなくなっただろ」
「怒ったのぉ~、お姉ちゃんは悲しいなぁ」
「いや、怒ってねーから」
「じゃあ、ほらこっちにおいでぇ~、え~い!」
「やめろって姉貴~~~」
「うふふふ」
「あははは―――」
すぐ近くの波打ち際で、水をかけ合い楽しそうに遊び始めたのは二人の武波さんだった。
一人はFクラスの担当の武波さんで、もう一人は同じ高校の先輩であり妹の実兄の武波さんで‥‥‥。
「もぉ~お姉ちゃん濡れちゃったじゃないの」
「先にやったのは姉貴だろ~、ほら―――!」
「いやぁ~ん! もっと濡れちゃうからぁ~~~陽ちゃんやめてよぉ~~~」
僕のよく知っている先輩は、剣道部主将で硬派な男子のはず。でもいま目の前にいるのは、目尻を地面に落としそうなくらいにデレ下げたシスコン男子だった。
「見つからなくてよかったけど‥‥‥武波さんの弟かな。えっ‥‥‥!? もしかして郁人の知り合い?」
茫然自失で目の前の光景を見つめていると、僕の態度を訝しんでか、鏡原さんが訊いてきた。
「‥‥‥うん」
まさかFクラス担当の武波さんが、僕のよく知っているあの武波陽太先輩のお姉さんだったとは‥‥‥。
恋から2人兄妹と聞いていた。だから武波先輩には実姉がいるはずはない。だとすれば、クラス担当の武波さんは武波先輩にとって義理の姉ということになるはずで‥‥‥。
あんなに楽しそうで姉に対してデレデレな姿。このことを学校で話したとしても誰も信じてはくれないだろう。
今日僕は大変なものを目撃してしまったに違いない。
「どういうことなの‥‥‥なんで郁人が知ってるのよ」
「あの男子は同じ学校の先輩で―――妹の実兄なんだ」
「ん‥‥‥???」
鏡原さんは首を左右に傾げながら頭の上にはてなマークを浮かべていた。
波打ち際では、姉に捕まった武波先輩が頭をよしよしと撫でられている。
僕は意を決して、というか、丁度いい機会だと思って昨日とは立場を変えて僕の方の事情を説明することにした。
「―――場所を変えよう。人が多いし、はぐれるから‥‥‥」
「‥‥‥うん」
僕たちは手を繋いだまま、海の家がある方へ向かって歩き出した。




