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失恋した春、白い服だけを着る私に、調香師の彼が恋の香りをくれました 〜春は、もう痛くない〜  作者: ちょこまろ


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第4話 恋を忘れる香りなんて、いらなかった

失恋から少しずつ立ち直り始めた春菜。


けれど今度は、亮に惹かれている自分の気持ちが怖くなってしまいます。


また好きになって、

また終わったらどうしよう。


そう考えた春菜は、亮の店へ行く回数を減らそうとします。


そんな中、仕事をきっかけに再び亮と向き合うことになる春菜。


そして彼の店で、春菜は自分の知らない亮の世界を目にすることになります。

 春菜は、亮に惹かれていることを自覚していた。


 会いたい。

 声が聞きたい。

 店の扉を開けた時、亮がこちらを見る瞬間が好きだと思ってしまう。


 けれど、その気持ちを認めるのは怖かった。


 また恋をして、また終わったらどうしよう。

 また「ときめきがなくなった」と言われたらどうしよう。

 また、自分だけが本気になってしまったらどうしよう。


 春菜は、亮の店へ行く回数を少し減らそうとした。


 仕事が忙しい。

 原稿の締め切りがある。

 取材の準備がある。


 そう理由をつければ、亮は無理に誘ってこない。


 それが、余計に春菜の胸を苦しくした。


 亮は優しい。

 優しいから、春菜の逃げ道をふさがない。


 その距離が心地よくて、でも少し寂しい。



   *



 編集部では、春のライフスタイル特集が進んでいた。


 テーマは「春に、自分を整える小さな習慣」。


 朝の散歩。

 花を飾ること。

 白いシャツの手入れ。

 新しいノートを使うこと。

 眠る前の香り。


 会議中、編集長が言った。


「香りの企画、何かいい取材先ない?」


 その瞬間、春菜の頭に亮の店が浮かんだ。


 白い扉。

 透明な瓶。

 春の光が入る小さな店。


 春菜は少し迷った後、手を挙げた。


「表参道の裏に、小さな香水店があります」


「有名店?」


「大きな店ではありません。でも、一人ひとりに合わせて香りを作っているお店です」


「いいじゃない。今の特集に合う。白石さん、担当できる?」


 春菜は頷いた。


「はい」


 仕事としてなら、会いに行ける。

 そう思った自分に、少し苦笑した。



   *



 亮に取材を申し込むと、彼は少し驚いたようだった。


「僕の店でいいんですか」


「はい。今回の特集に合うと思って」


「ありがとうございます」


「仕事なので、少し細かく聞くかもしれません」


「もちろんです」


 取材の日、春菜は白いシャツに紺のパンツで店へ向かった。


 いつもとは違う緊張があった。


 カウンターに録音機を置き、ノートを開く。


「では、始めます」


「はい」


 春菜は質問した。


 どうして調香師になったのか。

 どうして大手ブランドを辞めたのか。

 どうしてこの小さな店を開いたのか。


 亮は、少しずつ話してくれた。


 学生時代から香りに興味があったこと。

 人が香りで急に昔のことを思い出す瞬間が好きだったこと。

 大手ブランドに入ったものの、売れる香りを作ることばかり求められ、苦しくなったこと。


「売れる香りを作ることが、悪いわけではないんです」


 亮は言った。


「はい」


「たくさんの人に届く香りも、素晴らしいと思います。ただ、僕は途中で、香りの向こうにいる一人の人が見えなくなってしまった」


 春菜はペンを止めずに聞いた。


「一人のために作りたいと言った時、上司に言われました。一人のための香りなんて商品価値がない、と」


 春菜は、前に聞いた言葉を思い出した。


 その言葉は、想像していたよりも深く亮の中に残っているようだった。


「悔しかったですか」


「悔しかったです」


 亮は少し笑った。


「でも、それ以上に怖かったんです。自分が大切にしたいと思っていたものが、誰にも必要とされないものなのかもしれないと思って」


「それで、お店を?」


「はい。逃げた、と言われればそうかもしれません」


「逃げたんじゃないと思います」


 春菜は思わず言った。


 亮が顔を上げる。


 春菜は、少しだけ頬を熱くしながら続けた。


「自分が大事にしたいものを、捨てなかったんだと思います」


 亮はしばらく黙っていた。


 そして、静かに微笑んだ。


「白石さんにそう言ってもらえると、少し救われます」


 その言葉に、春菜の胸が鳴った。


 仕事中なのに。

 取材中なのに。


 好きだと思ってしまった。


 春菜は慌ててノートに視線を落とした。


「では、記事用にもう少し詳しく聞かせてください」


「はい」


 春菜は店内の写真を撮った。


 白い棚。

 透明な瓶。

 窓辺の花。

 調香台に向かう亮の横顔。


 カメラ越しの亮は、静かで、まっすぐで、美しかった。


 仕事中なのに、春菜は何度かシャッターを切る指が止まりそうになった。


「春菜さん?」


「あ、すみません。もう一枚だけ」


 亮は微笑んだ。


「何枚でも」


 その笑顔に、春菜の胸がまた鳴った。



   *



 取材記事は、予想以上に良いものになった。


 春菜は、亮の言葉を何度も読み返した。


『香りは、過去を消すものではありません。思い出しても痛くない場所まで、その人を連れていくものだと思っています』


 この一文は、どうしても入れたかった。


 けれど、初稿を読んだ編集長は少しだけ首を傾げた。


「いい記事なんだけど、少し感情が出すぎてない?」


 以前の春菜なら、すぐに引っ込めていた。


 わかりました。

 もっと無難にします。

 読みやすく整えます。


 そう言って、自分の言葉を薄めていた。


 けれど、その日の春菜は違った。


「今回は、感情を残したいです」


 編集長が顔を上げる。


「白石さん?」


「ただ香りを紹介する記事ではなくて、立ち直る人に届く記事にしたいんです」


 自分の声が震えているのがわかった。


 それでも、春菜は続けた。


「春に何かを始めたい人だけじゃなくて、春がつらい人にも届く記事にしたいです。だから、この一文は残したいです」


 編集長はしばらく春菜を見ていた。


 やがて、ふっと笑った。


「わかった。そこまで言うなら、このまま行こう」


 春菜は胸をなでおろした。


「ありがとうございます」


「最近、白石さんの文章、変わったね」


「そうですか?」


「うん。前より、言葉に体温がある」


 春菜は少し照れた。


 言葉に体温がある。


 それは、今の春菜にとって何より嬉しい褒め言葉だった。



   *



 記事の公開直前、春菜は会社の近くで健太に会った。


 偶然ではない。

 健太は、春菜を待っていたようだった。


「少しだけ話せる?」


 春菜は立ち止まった。


 以前なら、反射的に頷いていた。

 相手を困らせたくなくて、自分の予定をずらしていた。


 でも今は、まず自分の心に聞いた。


 今、話したい?

 話しても大丈夫?


 少し考えて、春菜は答えた。


「五分だけなら」


 健太はほっとしたように笑った。


「ありがとう」


 近くの公園の端で、二人は立ち話をした。


 健太は春菜を見て言った。


「最近、本当に変わったよな」


「そう?」


「うん。きれいになった」


 その言葉に、春菜の心は昔ほど揺れなかった。


 嬉しくないわけではない。

 けれど、健太に言われたから自分に価値が戻るわけではないと、今は少しわかっていた。


「もしかして、誰かいるの?」


 健太の声には、ほんの少し焦りが混じっていた。


 春菜は、ゆっくり首を横に振った。


「誰かがいるから変わったんじゃないよ」


 健太が顔を上げる。


 春菜は静かに言った。


「私が、私を取り戻しているだけ」


 健太は何も言えなかった。


 春菜は、それ以上説明しなかった。


「もう行くね」


「春菜」


「健太」


 春菜は、まっすぐ健太を見た。


「私、もう大丈夫って言うために会うのは、やめるね」


 健太の顔が少し歪んだ。


 春菜は軽く頭を下げ、歩き出した。


 背中に視線を感じた。

 でも、振り返らなかった。



   *



 その足で、春菜は亮の店へ向かった。


 健太に言えたことを、亮に少し聞いてほしかった。

 記事の話もしたかった。

 そして、完成した香りのことも聞きたかった。


 けれど店の前で、春菜は立ち止まった。


 店内に、きれいな女性がいた。


 亮と同じ年頃だろうか。

 洗練された服装で、姿勢が美しい。

 亮と向かい合って、真剣な顔で話している。


 女性は、何かの資料を亮に差し出していた。


 その時の亮は、春菜が知っている亮とは少し違って見えた。


 春菜の話を静かに聞いてくれる人。

 白い花の香りを選んでくれる人。

 眠れない夜を香りに混ぜてくれる人。


 そういう亮ではなく、香りの世界で生きてきた一人の調香師だった。


 自分の知らない顔。

 自分の知らない時間。

 自分の知らない場所。


 扉の隙間から、女性の声が少しだけ聞こえた。


「あなたの香りはきれいよ。でも、こんな小さな店で一人に向けて作っていたら、誰にも届かないわ」


 春菜の足が止まった。


 女性は続ける。


「戻ってきなさいよ。今なら、あなたの名前で企画を通せる。もっと大きな場所で作れるのよ」


 亮は黙っていた。


 春菜には、その沈黙が迷いに見えた。


 仕事の話をしている亮は、遠かった。


 初めて、春菜は亮を「自分の香りを作ってくれる人」ではなく、「自分の知らない世界を持つ人」として見た。


 胸が、きゅっと縮む。


 そうだ。

 亮は才能のある人だ。


 自分のために香りを作ってもらっている場合ではないのかもしれない。

 失恋したばかりの自分の話を聞いて、時間を使わせて、優しさに甘えて。


 それは、亮の未来の邪魔になっているのではないか。


 春菜は、扉を開けられなかった。


 会話はそれ以上聞こえない。

 でも、二人は同じ世界の人に見えた。


 香りの世界。

 才能のある人たちの世界。

 自分には踏み込めない世界。


 春菜は一歩後ずさった。


 白いワンピースの裾が、春の風に揺れた。


 その時、店の中の亮がふと顔を上げた。


 目が合いそうになって、春菜は思わず身を引いた。

 そして、そのまま角を曲がった。


 逃げるように歩いた。


 心臓が痛かった。



   *



 店の中で、亮は扉の向こうに白い裾が消えるのを見た。


「どうかした?」


 女性が聞いた。


 彼女は亮の元同僚で、大手ブランド時代の先輩だった。

 今日は、亮にブランド復帰の話を持ってきていた。


「いえ」


 亮は扉の方を見た。


 今のは、春菜だった。


 そう確信した。


「香月くん、戻ってくる気はない?」


 女性が言った。


「あなたの才能なら、もっと大きな場所でやれる。今の店も素敵だけど、正直もったいないと思う」


 亮は少し黙った。


 以前なら、揺れたかもしれない。


 大きな場所。

 多くの人に届く香り。

 安定した仕事。

 評価される環境。


 それらに価値がないわけではない。


 でも、今の亮には、作りたい香りがあった。


 調香台の上に、小さな白い瓶がある。


 ラベルには、手書きでこう書かれていた。


 White Blend


「すみません」


 亮は静かに言った。


「僕は、ここで作りたい香りがあります」


 女性は目を細めた。


「一人のための香り?」


「はい」


「それで満足なの?」


 亮は小瓶を見た。


 春菜が、自分の香りを受け取った時の顔を思い出した。

 きれい、と言ってくれた声を思い出した。

 嬉しかった、と言ってくれた言葉を思い出した。


「満足というより」


 亮は言った。


「やっと、自分が作りたかったものを信じられそうなんです」


 女性はしばらく黙っていた。


 やがて、少しだけ笑った。


「そう。いい顔になったね」


「そうですか」


「うん。誰かのために作ってる顔」


 亮は、White Blendの小瓶を手に取った。


 まだ、渡せていない。


 春菜がなぜ去ったのか、はっきりとはわからない。

 けれど、追いかけるべきだったのかもしれない。


 亮は白い小瓶を見つめた。


「まだ、渡せていないのに」


 小さくつぶやいた声は、店の静かな空気に溶けた。

お読みいただき、ありがとうございます。


「誰かがいるから変わったんじゃないよ」


「私が、私を取り戻しているだけ」


健太にそう言えるまでになった春菜。


けれど、恋だけはまだ怖いままです。


亮の店で見かけた、彼と同じ香りの世界に生きる女性。


そして聞こえてきた、


「戻ってきなさいよ」


という言葉。


自分は亮の未来の邪魔になっているのではないか――。


そう思った春菜は、また一歩引こうとしてしまいます。


けれど春菜の知らないところで、亮が選んだ答えはすでに決まっていました。


「僕は、ここで作りたい香りがあります」


次話はいよいよ最終話《White Blend》。


春菜のために作られた香りと、二人の気持ちがひとつの答えへ向かいます。

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