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失恋した春、白い服だけを着る私に、調香師の彼が恋の香りをくれました 〜春は、もう痛くない〜  作者: ちょこまろ


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第3話 白い嘘も、白いワインも、春に溶ける

「いい子」でいれば、誰も困らない。


そう思って、春菜はずっと自分の気持ちを飲み込んできました。


けれど今回は、別れた健太ともう一度向き合います。


傷ついていないふりをするのではなく、

自分が本当はどう感じていたのかを、自分の言葉で伝えるために。


そしてその夜、春菜のために作られていた香りにも、ひとつの名前が生まれます。

 健太と会う約束をした後、春菜は何度もスマホを見た。


 約束したのは、会社近くのカフェだった。

 健太と何度も行った店だ。


 春菜は、断ることもできた。

 今さら会わなくてもいい、と言うこともできた。


 でも、逃げたくなかった。


 終わったのなら、ちゃんと終わった場所を見たい。

 自分がどれだけ傷ついたのか、少しだけでも自分の言葉で言いたい。


 そう思った。


 春菜は白いカーディガンを羽織り、手首に亮が作ってくれた試作の香りを少しだけつけた。


 白い花と、冷たい夜の匂い。


 大丈夫。

 私は、私のまま行けばいい。


 そう言い聞かせて、春菜はカフェへ向かった。



   *



 健太は、先に来ていた。


 春菜が店に入ると、健太はすぐに立ち上がった。


「久しぶり」


「うん」


 久しぶり、というほど日数は経っていない。


 それなのに、その言葉は不思議なくらい遠く感じた。


 春菜は向かいの席に座った。


 健太は春菜を見て、少し驚いたような顔をした。


「なんか、雰囲気変わった?」


「そうかな」


「うん。前より……明るいというか」


 春菜は返事をしなかった。


 健太は気まずそうに水を飲んだ。


「この前は、急にあんな話をして悪かったと思ってる」


「うん」


「ずっと考えてたんだ。俺、春菜を傷つけたよなって」


「うん」


「春菜は悪くないんだ。本当に」


 その言葉を聞いた瞬間、春菜の胸の奥が少しだけ冷えた。


 悪くない。

 いい子。

 落ち着く。


 健太の言葉は、いつも春菜を責めない。

 けれど、春菜をどこにも置いてくれない。


「春菜は、本当にいい子だったよ」


 だった。


 その過去形が、春菜の心に刺さった。


 健太は続けた。


「俺が勝手だったんだと思う。春菜といると安心しすぎて、恋愛って感じがしなくなって。それを春菜のせいみたいに言ったのは、本当に悪かった」


 春菜は黙って聞いていた。


 健太は反省している。

 それはわかる。


 けれど、春菜は少しずつ気づいていた。


 健太は復縁したいわけではない。

 春菜を取り戻したいわけでもない。

 ただ、自分が春菜を傷つけたという事実を、春菜の口から少し軽くしてもらいたいのだ。


 大丈夫だよ。

 気にしてないよ。

 健太は悪くないよ。


 春菜がそう言えば、健太は救われる。


 でも、その言葉を言ったら、自分の痛みはどこへ行くのだろう。


 春菜はコーヒーカップを見つめた。


「健太は、私にどうしてほしいの?」


 健太が顔を上げる。


「え?」


「怒ればいい? 泣けばいい? それとも、気にしてないよって笑えばいい?」


「春菜、俺はそういうつもりじゃ」


「私はまだ、全然平気じゃないよ」


 言葉にした瞬間、春菜の手が震えた。


 でも、止まらなかった。


「でも、健太を責めたいわけでもない。ただ、私との三年を、健太の罪悪感を軽くするためだけに使わないでほしい」


 健太は、何も言えなかった。


 春菜は、初めて健太の前で自分の痛みをそのまま置けた気がした。


「ごめん。今日はもう帰るね」


 春菜は立ち上がった。


「春菜」


 健太が呼んだ。


 けれど春菜は振り返らなかった。



   *



 カフェを出ると、足が少し震えた。


 強いことを言えた。

 けれど、平気なわけではなかった。


 春菜は深く息を吸った。


 手首から、亮の香りがふわりと立った。


 白い花。

 冷たい夜。

 洗いたてのシャツ。


 その香りに触れた瞬間、春菜は少しだけ落ち着いた。


 気づけば、亮の店の近くまで来ていた。


 Lumière Blancheの扉には、閉店準備中の札がかかっていた。

 亮は看板を片づけているところだった。


 春菜を見ると、亮はすぐに扉を開けた。


「入りますか」


 春菜は頷いた。


 店の中は、昼間より静かだった。

 窓の外の光は少しずつ夜に変わり、棚の小瓶がやわらかく光っている。


「すみません。閉店間際に」


「大丈夫です」


 亮はカウンターに水を置いた。


 春菜は、健太と会ったことを話した。


 別れた理由。

 今日言われたこと。

 自分が初めて言い返したこと。


 健太が悪人ではないからこそ、怒りをどこに置けばいいかわからないこと。

 自分は大切にされていたと思っていたけれど、本当はただ都合がよかっただけかもしれないこと。


 亮は、最後まで聞いていた。


 そして、静かに言った。


「春菜さんは、誰かに選ばれなかったから価値が下がったわけじゃないです」


 春菜は、涙をこぼした。


 それは、健太に別れを告げられた日よりも、ずっと素直な涙だった。


 亮はハンカチを差し出してくれた。

 それ以上、近づいてはこなかった。


 その距離が、春菜にはありがたかった。


「私、選ばれなかったんだって、ずっと思ってました」


「はい」


「選ばれ続けるためには、もっと何かをしないといけなかったのかなって」


「春菜さん」


「はい」


「恋は、試験ではありません」


 春菜は涙のまま笑ってしまった。


「香水店の人って、本当に変なことを言いますね」


「そうですね」


 亮も少し笑った。


 少し落ち着いた頃、亮が奥の棚から小さな瓶を取り出した。


「白ワイン、少し飲みますか」


「香水店で?」


「店では出しません。僕の分です。でも今日は、少しだけ」


 春菜は驚いた後、ふっと笑った。


「飲みます」


 亮は小さなグラスに白ワインを注いだ。


 春菜はグラスを持ち、薄い金色の液体を見つめた。


「なんだか、今日の私は少しだけご機嫌です」


 泣いたばかりなのに。

 傷ついたばかりなのに。

 それでも、言葉にすると本当に少しだけ気分が軽くなった。


 亮は、その言葉を聞いた瞬間、はっとしたように調香台を見た。


「名前が決まりました」


「名前?」


「香りの名前です」


 亮は調香台へ向かった。


 白い花。

 洗いたてのシャツ。

 夜の冷たさ。

 少しの甘さ。

 白ワインの明るさ。


 亮は小瓶を取り、試香紙に香りを含ませた。


「まだ完成ではありません。でも、近づいたと思います」


 春菜は試香紙を受け取った。


 前より少しやわらかかった。

 寂しさはある。

 でも、その奥に、春の陽ざしのようなあたたかさがある。


「きれい」


 春菜は言った。


「名前は?」


 亮は答えた。


「White Blend」


「ホワイト、ブレンド」


「春菜さんの白は、一色ではない気がしました」


「一色ではない?」


「泣いた後の白。眠れない夜の白。白い服。白ワイン。春の光。これから何かが始まる前の白」


 春菜は、胸がそっと熱くなるのを感じた。


 自分の白を、そんなふうに見てくれる人がいる。


 それだけで、今日一日が少し救われる気がした。


「完成したら」


 亮が言った。


「一番に春菜さんにつけてほしいです」


「私に?」


「これは、春菜さんのための香りだから」


 春菜の胸が、はっきりと鳴った。


 それは、失恋してから初めて感じる、ときめきだった。


 春菜が帰った後、亮は一人で調香台の前に立っていた。


 White Blend。


 誰か一人のために作る香り。


 かつて、それは商品にならないと言われた。

 ただの自己満足だと笑われた。


 けれど春菜は、嬉しかったと言ってくれた。


 自分のために香りを探してくれたことが嬉しかった、と。


 亮は小さな瓶を見つめた。


 春菜のために作っているはずの香りが、いつの間にか亮自身の中にあった迷いも少しずつほどいていた。

お読みいただき、ありがとうございます。


春菜はようやく健太に、


「私はまだ、全然平気じゃないよ」


と伝えることができました。


相手を責めるためではなく、

自分の痛みをなかったことにしないための言葉です。


そして亮の店で生まれた香りの名前は――《White Blend》。


泣いた後の白。

眠れない夜の白。

白い服。

白ワイン。

春の光。

そして、これから何かが始まる前の白。


少しずつ前を向き始めた春菜ですが、次話では、亮への気持ちをはっきりと自覚し始めます。


ところが、亮の店を訪れた春菜が目にしたのは、彼と親しげに話す一人の女性でした。


二人の距離が、もう一度揺れ始めます。

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