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失恋した春、白い服だけを着る私に、調香師の彼が恋の香りをくれました 〜春は、もう痛くない〜  作者: ちょこまろ


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第2話 眠れない夜に、香りの名前をつけた

失恋した夜、眠れなくなった春菜。


忘れたいのに、忘れたくない。

前へ進みたいのに、三年間をなかったことにはしたくない。


そんな彼女は、あの日もらった一枚の白いカードを頼りに、調香師・亮の店を訪れます。


今回は、春菜のためだけの「香り」が生まれ始めるお話です。

 健太からのメッセージに、春菜はすぐには返事をしなかった。


『ごめん。やっぱり少しだけ話したい』


 何を話すのだろう。


 別れ話は終わった。

 三年間も終わった。

 春菜はありがとうと言い、健太もありがとうと言った。


 それなのに、まだ話したいことがあるのだろうか。


 春菜はスマホを伏せた。


 部屋の中は静かだった。

 カーテンの隙間から、夜の光が細く入っている。


 春菜はバッグから、今日もらった白いカードを取り出した。


 Lumière Blanche


『春が嫌いになりそうなら、ここへ来てください』


 健太のメッセージよりも、その手書きの一文の方が胸に残った。


 春菜はカードを机の上に置き、ベッドに入った。


 けれど、眠れなかった。


 目を閉じると、健太の声が戻ってくる。


「ときめきが、なくなったんだ」


 春菜は布団の中で何度も寝返りを打った。


 三年も一緒にいた。

 誕生日も、クリスマスも、旅行も、忙しい日の夕飯も、体調を崩した時の看病も。

 春菜なりに大切にしてきた。


 それなのに最後に残ったのは、

「落ち着くけど、ときめきはない」

という言葉だった。


 自分の何が足りなかったのか考えてしまう。


 もっと華やかならよかったのか。

 もっとわがままを言えばよかったのか。

 もっと甘えればよかったのか。

 もっと、女らしくいればよかったのか。


 考えれば考えるほど眠れない。


 翌朝、春菜は鏡の前に立った。


 顔色が悪い。

 目の下に薄い影がある。


 クローゼットを開けると、白い服が並んでいた。


 白いブラウス。

 白いカーディガン。

 白いワンピース。


 春菜は迷った末に、白いブラウスを選んだ。


 母の言葉を思い出す。


 泣いた後は、白を着なさい。


 昨日までの自分を、少しだけ洗ってくれるから。


 でも、今日の白も春菜を洗ってはくれなかった。



   *



 出版社の編集部は、春の特集で忙しかった。


 新生活に向けたインテリア。

 春の散歩特集。

 小さな手土産。

 大人の週末時間。


 明るい企画ばかりが机の上に積まれている。


 春菜は原稿を確認し、ライターに修正を依頼し、写真の差し替えを手配した。

 仕事をしている間は、余計なことを考えずに済んだ。


 けれど、ふとした瞬間に健太のメッセージが頭をよぎる。


 昼休み、春菜はスマホを開いた。


 返信欄に文字を打つ。


『何の話?』


 冷たすぎる気がして消した。


『もう話すことはないと思う』


 強すぎる気がして消した。


『いいよ』


 軽すぎる気がして消した。


 結局、何も送れなかった。


 仕事帰り、春菜は表参道で電車を降りた。


 まっすぐ帰るつもりだった。

 けれど、気づいた時には、あの裏通りに向かって歩いていた。


 足が覚えていた。


 ギャラリーの隣に、その店はあった。


 白い扉。

 透明な小瓶が並ぶ窓。

 控えめな看板。


 Lumière Blanche


 春菜は扉の前で一度立ち止まった。


 入っていいのだろうか。

 本当に、自分はここへ来ていいのだろうか。


 カードには、こう書いてあった。


『春が嫌いになりそうなら、ここへ来てください』


 春菜は小さく息を吸い、扉を開けた。


 鈴の音が、ちりんと鳴った。


 店の中は、思っていたより小さかった。


 白い棚に、透明な瓶が整然と並んでいる。

 窓辺には、小さな白い花が飾られていた。

 奥には、木のカウンターと調香台がある。


 強い香水の匂いがするかと思っていた。

 でも違った。


 空気は静かで、軽い。

 いくつもの香りが重なっているはずなのに、息苦しくない。


 奥から亮が出てきた。


「来てくれて、よかったです」


 その一言で、春菜は胸が詰まった。


 まるで、来ることを責められなかったような気がした。


「来るつもりは、あまりなかったんです」


「はい」


「でも、眠れなくて」


「はい」


「それで……少しだけ、違う春の匂いを知りたくなりました」


 亮は静かに頷いた。


「よかったら、座ってください」


 春菜はカウンター席に座った。


 亮は小さなグラスに水を入れて出してくれた。


「香水を選ぶ時、好きな香りから決める人もいます」


「はい」


「でも、僕はできれば、その人の話を少し聞きたいんです」


「話?」


「好きな季節、嫌いな夜、忘れたい記憶、大切にしていたもの。そういうものを、少しずつ」


 春菜は戸惑った。


「そんなことで、香りが作れるんですか」


「作れることもあります。作れないこともあります」


 亮は少し笑った。


「でも、少なくとも、その人の心に近い香りを探すことはできます」


 春菜は、水の入ったグラスに指を添えた。


「話すの、あまり得意じゃないです」


「急がなくて大丈夫です」


「黙ってしまうかもしれません」


「それも大丈夫です。沈黙にも、香りはありますから」


 春菜は思わず笑った。


「変なことを言いますね」


「よく言われます」


 亮の声は穏やかだった。


 春菜は少しずつ話し始めた。


 春が好きだったこと。

 白い服を着る習慣があること。

 最近、春の明るさが少しつらいこと。

 眠れない夜が続いていること。

 白ワインが好きだったこと。

 恋人に嘘をつかれたわけではないのに、裏切られたように感じていること。


 亮は、春菜の言葉を途中で遮らなかった。


 かわいそうに、とも言わない。

 そんな男は忘れた方がいい、とも言わない。

 もっといい人がいる、とも言わない。


 ただ、聞いていた。


 それだけなのに、春菜は少しずつ呼吸が楽になるのを感じた。


「香りで、失恋って忘れられるんですか」


 春菜は、あの日と同じ質問をした。


 亮は、やはり少し考えてから答えた。


「忘れるための香りは、作れません」


「やっぱり」


「でも、思い出しても痛くない場所まで連れていく香りなら、作れるかもしれません」


 春菜は、カウンターの上を見つめた。


「忘れなくても、いいんでしょうか」


「はい」


「でも、忘れないと前に進めない気がします」


「忘れようとすると、逆に何度も思い出すことがあります」


 亮は、透明な小瓶を手に取った。


「大切にしていた時間まで、なかったことにしなくていいと思います」


 春菜の胸が震えた。


 なかったことにしたくなかった。


 健太との三年は、春菜にとって確かに大切だった。

 笑った日もあった。

 安心した夜もあった。

 この人とずっと一緒にいるのかもしれないと思った瞬間もあった。


 だからこそ、別れが苦しかった。


 亮は、いくつかの小瓶を並べた。


「少し試してみましょうか」


「はい」


 最初の香りは、白い花のようだった。


「ジャスミンです。ただ、少しだけ弱くしています」


「強すぎないですね」


「今の春菜さんには、強すぎる花より、少し距離のある花が合う気がします」


 次の香りは、洗いたてのシャツのようだった。


「これは?」


「ムスクを軽くしたものです。清潔感を出す時によく使います」


「好きです」


「よかった」


 その次は、少し冷たい香りだった。


「夜みたい」


 春菜が言うと、亮は嬉しそうに頷いた。


「そう感じるなら、入れてみましょう」


「夜も入れるんですか」


「眠れなかった夜も、春菜さんの一部ですから」


 春菜は何も言えなくなった。


 亮は香料を少しずつ組み合わせていく。

 動きは丁寧で、無駄がない。


 春菜は、その横顔を見ていた。


 集中している時の亮は、とても静かだった。

 でも、その静けさは冷たいものではなかった。

 誰かのために丁寧に何かを作っている人の静けさだった。


 やがて亮は、試香紙に香りを含ませた。


「まだ試作です」


 春菜はそれを受け取った。


 そっと鼻を近づける。


 白い花。

 洗いたてのシャツ。

 春の朝の空気。

 少しだけ冷たい夜。


 胸の奥に、ふわりと何かが広がった。


「きれい」


 自分の口から出た言葉に、春菜は驚いた。


 亮は微笑んだ。


「よかった」


「でも、少し寂しいです」


「はい」


「寂しいけど……嫌いじゃないです」


「それなら、近いかもしれません」


「完成ではないんですか」


「まだです」


 亮は試香紙をもう一本用意して、小さな袋に入れた。


「よかったら、持って帰ってください。眠る前に、少しだけ近くに置くといいかもしれません」


「ありがとうございます」


 春菜はそれを受け取った。


 店を出る前、春菜はふと聞いた。


「亮さんは、どうしてこんなふうに、一人ずつ香りを作るんですか」


 亮は少しだけ手を止めた。


 ほんの一瞬、迷うような沈黙があった。


「昔、大きなブランドで働いていたんです」


「大きなブランド?」


「はい。そこで、上司に言われたことがあります。一人のための香りなんて商品価値がない、と」


 春菜は息をのんだ。


「それは……」


「間違ってはいないんです。会社として考えれば、売れる香りを作ることが大事ですから」


 亮は穏やかに言った。


 でも、その声の奥には、小さな傷のようなものがあった。


「でも僕は、その言葉を聞いた時、自分が作りたいものを少し信じられなくなりました」


「信じられなくなった?」


「誰か一人のために香りを作りたいと思うことが、ただの自己満足なのかもしれないと思って」


 春菜は、カウンターの上の試香紙を見つめた。


 これは、自分のために作ってくれた香りだ。


 そのことが、急に重く、そして温かく感じた。


「でも、私は嬉しかったです」


 春菜は言った。


 亮が顔を上げる。


「私の話を聞いて、私のために香りを探してくれたこと。すごく、嬉しかったです」


 亮は少しだけ目を伏せた。


 そして、静かに微笑んだ。


「ありがとうございます」


 その夜、春菜は試香紙を枕元に置いて眠った。


 完全にぐっすりとはいかなかった。

 けれど、久しぶりに数時間、続けて眠れた。


 翌朝、春菜は出勤前に文房具店へ寄った。


 白い日記帳を買った。


 今まで日記など続いたことがなかった。

 それでも、なぜか書きたくなった。


 最初のページに、春菜はペンを置いた。


『今日、春の匂いがする人に会った』


 そして、スマホを開いた。


 健太からのメッセージは、まだ残っている。


 春菜は少し迷ってから、返信した。


『少しだけなら』


 送信した後、春菜は白い日記帳を閉じた。

お読みいただき、ありがとうございます。


「忘れるための香りは作れない」


そう言いながら、亮は春菜の好きなものだけではなく、眠れなかった夜や寂しさまで香りの中に入れていきます。


そして春菜のために香りを作ることは、かつて「一人のための香りには価値がない」と言われた亮自身の心も、少しずつ動かし始めました。


次話では、春菜が元恋人・健太ともう一度向き合います。


ずっと「いい子」でいた春菜が、初めて自分の痛みを自分の言葉で伝える回です。


そして、二人の香りには《White Blend》という名前がつきます。

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