第1話 春だけ白い服を着る理由
春は、新しい始まりの季節。
けれど、誰かとの時間が終わったばかりの人にとっては、その明るさが少しだけつらく見えることもあります。
三年間付き合った恋人に別れを告げられた春菜。
白い服を着て歩き出した彼女が出会うのは、小さな香水店を営む調香師・香月亮。
失恋から始まる、春と香りと再生の恋物語です。
「春菜は、本当にいい子だよ」
佐伯健太は、コーヒーカップに視線を落としたまま言った。
その言葉を聞いた瞬間、白石春菜は、ああ、これは別れ話なのだと思った。
人は、別れを告げる前に、相手を少しだけ褒める。
責めるためではなく、自分が悪者になりすぎないために。
春菜は、テーブルの下で膝の上に置いた手をぎゅっと握った。
四月の午後だった。
カフェの窓際の席には、春の陽ざしがやわらかく差し込んでいる。
窓の外では、薄手のコートを脱いだ人たちが、明るい色の服で歩いていた。
世界は、こんなに穏やかな顔をしている。
なのに、自分の前に座る恋人は、今から三年分の時間を終わらせようとしている。
「一緒にいると、落ち着くんだ」
健太は続けた。
「うん」
「春菜といると、無理しなくていいし、安心する」
「うん」
「でも……」
その先を聞きたくなかった。
春菜は、コーヒーカップの縁を見つめた。
表面に小さく揺れる黒い液体が、まるで自分の心のように見えた。
「恋人っていうより、家族みたいになったんだと思う」
健太の声は、ひどく優しかった。
優しいからこそ、残酷だった。
「ときめきが、なくなったんだ」
春菜は、そこでようやく顔を上げた。
健太は困ったように眉を下げていた。
悪い人ではない。
怒鳴る人でもない。
浮気をしたわけでも、誰かに乗り換えたわけでもない。
ただ、春菜をもう恋人として見られなくなった。
それだけのことだった。
けれど、その「それだけ」が、春菜の胸の奥を静かに切った。
「そっか」
春菜は言った。
自分でも驚くくらい、平らな声だった。
「ごめん」
「謝らないで」
「でも、俺が勝手なことを言ってるのはわかってる」
「うん」
わかっているなら、どうして言うの。
そんな言葉が喉まで上がってきた。
けれど春菜は、それを飲み込んだ。
健太を困らせたくなかった。
別れ話の最後まで、いい子でいたかった。
最後に嫌な女だったと思われたくなかった。
その癖が、自分をどれだけ苦しめているのか、春菜はこの時まだわかっていなかった。
「三年間、ありがとう」
健太が言った。
ありがとう。
その言葉で、本当に終わったのだとわかった。
春菜は少しだけ笑った。
「こちらこそ」
涙は出なかった。
泣けなかった。
泣いたら、健太がもっと困ると思ったからだ。
*
カフェを出ると、春の風が吹いていた。
桜はもう満開を過ぎ、歩道の端に薄い花びらが積もっている。
春菜の靴の先に、ひとひらの花びらが触れて、すぐに風にさらわれた。
健太とは駅の手前で別れた。
「送るよ」
と言われたけれど、春菜は断った。
「大丈夫。少し歩きたいから」
それは嘘ではなかった。
歩かなければ、膝から崩れてしまいそうだった。
春菜は、駅とは反対方向へ歩いた。
表参道の大通りから一本入ると、急に人通りが少なくなる。
小さな雑貨店、古いビルの二階にある美容室、窓辺に植物を並べたカフェ。
そこだけ時間が少しゆっくり流れているようだった。
歩きながら、健太の言葉が何度も戻ってきた。
春菜はいい子。
一緒にいると落ち着く。
恋人というより家族。
ときめきがなくなった。
いい子。
落ち着く。
家族。
それは、本当なら褒め言葉のはずだった。
なのに、どうしてこんなに痛いのだろう。
春菜は角を曲がったところで、足を止めた。
小さなギャラリーがあった。
白い壁に、白い扉。
看板も控えめで、気をつけていなければ通り過ぎてしまいそうな場所だった。
扉の横に、小さな文字で書かれていた。
『春の光展』
春菜は、吸い寄せられるように中へ入った。
中には誰もいなかった。
白い壁に、何枚かの絵が飾られている。
花の絵も、窓辺の絵も、白い布をかけたテーブルの絵もあった。
その奥に、一枚だけ、不思議な絵があった。
何か具体的なものが描かれているわけではない。
白と、淡い黄色と、ほんの少しの青。
春の陽ざしだけを、そっと閉じ込めたような絵だった。
春菜は、その絵の前で足を止めた。
急に、胸の奥がいっぱいになった。
さっきまで出なかった涙が、一粒だけ頬を伝った。
自分でも驚いた。
誰もいないと思っていたから、春菜はそのまま目を閉じた。
健太の前では泣けなかった。
会社の人にも、友達にも、まだ言えない。
家に帰れば、もっと苦しくなる気がした。
だから、知らないギャラリーの白い絵の前で、春菜は少しだけ泣いた。
その時だった。
「春の匂いがしますね」
背後から声がした。
春菜ははっとして振り返った。
そこに、一人の男性が立っていた。
三十代前半くらいだろうか。
黒いニットに、濃い色のパンツ。
派手ではないのに、なぜか目を引く人だった。
彼はすぐに軽く頭を下げた。
「すみません。驚かせるつもりはありませんでした」
春菜は慌てて涙を拭った。
「いえ、大丈夫です」
「隣で香水店をやっています。香月亮です」
男性は、そう名乗った。
春菜は少し戸惑いながら、頭を下げた。
「白石春菜です」
「白石さん」
亮は、春菜の涙について何も聞かなかった。
どうして泣いているのか。
何があったのか。
誰に傷つけられたのか。
そういうことを、一切聞かなかった。
ただ、春菜の白いブラウスを見て、静かに言った。
「白が、よく似合いますね」
春菜は苦笑した。
「似合っているかは、わかりません。春だけ、白い服を着るようにしているんです」
「春だけ?」
「はい」
「どうしてですか」
どうしてだろう。
初対面の人に、そんなことを話す必要はない。
そう思ったのに、春菜の口は自然に動いた。
「昔、失恋した時に、母に言われたんです」
「お母さまに?」
「泣いた後は白を着なさいって。昨日までの自分を、少しだけ洗ってくれるからって」
亮は、静かに聞いていた。
「それから、春になると白を着るんです。新しく始めるために」
「いいですね」
亮はやわらかく微笑んだ。
けれど春菜は、首を横に振った。
「でも、今年はだめみたいです」
「だめ?」
「白を着ても、洗われる感じがしません。むしろ、自分が空っぽになったみたいで」
言ってから、春菜は後悔した。
こんなこと、初対面の人に話すことではない。
「すみません。変な話をして」
「変ではありません」
亮はすぐに言った。
その声があまりにも自然だったから、春菜は顔を上げた。
「今日の白は、まだ途中なんだと思います」
「途中?」
「終わらせるための白じゃなくて、始まる前の白に見えます」
春菜は、何も言えなかった。
始まる前。
今の自分に、そんな言葉が当てはまるとは思わなかった。
終わったばかりだと思っていた。
捨てられたばかりだと思っていた。
空っぽになったばかりだと思っていた。
でも、この人は、始まる前だと言った。
春菜は胸の奥が少しだけあたたかくなるのを感じた。
「隣のお店、香水店なんですか」
「はい。小さな店です」
「香水って、あまり詳しくなくて」
「詳しくなくても大丈夫です。香りは、知識より記憶に近いものですから」
「記憶?」
「はい。たとえば、春の匂いを嗅いで昔のことを思い出したり、洗いたてのシャツの匂いで誰かを思い出したり。そういうものです」
春菜は、手の甲で涙の跡をそっと拭った。
「香りで、嫌なことも忘れられますか」
思わず聞いていた。
亮は少しだけ考えてから言った。
「忘れるための香りは、僕には作れません」
「そうですか」
「でも、思い出しても痛くない場所まで連れていく香りなら、作れるかもしれません」
その言葉は、春菜の心に静かに落ちた。
忘れたい。
なかったことにしたい。
そう思っていた。
でも、本当は、健太と過ごした三年間を全部消したいわけではなかった。
消したいほど憎んでいるわけでもなかった。
だからこそ、苦しかった。
亮はポケットから小さな白いカードを取り出した。
「もしよければ」
春菜はカードを受け取った。
そこには、店の名前が書かれていた。
Lumière Blanche
その下に、手書きの文字がある。
『春が嫌いになりそうなら、ここへ来てください』
カードの裏には、店の電話番号と、営業時間が書かれていた。
その文字は、看板よりも少しだけ柔らかく見えた。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味です」
亮は穏やかに言った。
「春を嫌いになる前に、違う春の匂いを知ってほしいと思いました」
春菜は、うまく返事ができなかった。
ギャラリーを出ると、空はまだ明るかった。
春の風が吹いて、白いブラウスの袖が少し揺れる。
手の中には、白いカードがあった。
春菜はそれを握りしめた。
涙はまだ完全には止まっていなかった。
それでも、不思議とさっきより息がしやすかった。
その夜、部屋に戻った春菜のスマホが震えた。
画面には、健太の名前が表示されていた。
『ごめん。やっぱり少しだけ話したい』
春菜はその文字を見つめた。
そして、財布の中にしまった白いカードのことを思い出していた。
お読みいただき、ありがとうございます。
「ときめきがなくなった」
その一言で、三年間の恋を終えた春菜。
けれど、失恋したその日に出会った調香師・亮は、彼女にこんな言葉を残しました。
「忘れるための香りは、僕には作れません」
そして、
「思い出しても痛くない場所まで連れていく香りなら、作れるかもしれません」
春菜の手元に残った、一枚の白いカード。
次話では、眠れない夜を過ごした春菜が、そのカードを頼りに亮の香水店を訪れます。
そこで、春菜のためだけの香りが少しずつ生まれ始めます。




