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失恋した春、白い服だけを着る私に、調香師の彼が恋の香りをくれました 〜春は、もう痛くない〜  作者: ちょこまろ


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最終話 White Blend

いよいよ最終話です。


亮から届いた、


「香りが完成しました」


という言葉。


それでも春菜は、また恋をして傷つくことが怖くて、一歩を踏み出せずにいました。


けれど、白い日記帳に残っていたのは、失恋の痛みだけではありません。


少し眠れた夜。

自分の気持ちを言えた日。

そして、亮と出会って少しずつ変わっていった自分。


春菜のために作られた《White Blend》。


その香りが完成した時、二人の春もひとつの答えへ向かいます。

 春菜は、亮と距離を置こうとした。


 仕事が忙しいから。

 記事の確認があるから。

 週末は予定があるから。


 そんな理由を作って、店に行かなかった。


 亮からは、何度かメッセージが届いた。


『無理をしていませんか』


『記事、楽しみにしています』


『香りが完成しました』


 どの言葉も優しかった。


 優しいからこそ、春菜はすぐに返事ができなかった。


 自分は、まだ失恋から立ち直ったばかりだ。

 健太との三年をようやく手放そうとしているところだ。

 そんな自分が、亮の人生に踏み込んでいいのだろうか。


 亮は才能のある人だ。

 大きなブランドに戻れるような人だ。


 春菜のために時間を使うより、もっと広い世界で活躍した方がいいのではないか。


 そんな考えが、春菜の中でぐるぐる回った。


 けれど、その考えの奥に、本当は別の怖さがあることもわかっていた。


 亮を好きになるのが怖い。


 それだけだった。


 また恋をして、また終わったらどうしよう。

 また、自分だけが本気になったらどうしよう。


 春菜は、白い日記帳を開いた。


 あれから少しずつ書き続けている。


『今日は少し眠れた』


『亮さんの店の白い花がきれいだった』


『健太に、初めて自分の気持ちを言えた』


『White Blendという名前が好き』


 ページをめくるたびに、そこには春菜が少しずつ前を向いていく記録があった。


 亮が救ってくれたのではない。


 亮は、春菜が自分で歩けるように、香りと静かな言葉をくれた。


 それなのに、自分は今、また逃げようとしている。


 春菜は日記帳を閉じた。



   *



 記事が公開されたのは、金曜の朝だった。


 タイトルは、


『春に、自分を取り戻す香り』


 亮の店の写真が載っている。

 白い棚、透明な瓶、窓辺の花。

 そして、調香台に向かう亮の横顔。


 春菜は記事の中に、亮の言葉を入れた。


『香りは、過去を消すものではありません。思い出しても痛くない場所まで、その人を連れていくものだと思っています』


 公開後、編集部内でも反応は良かった。


「白石さん、この記事すごくいいね」


「香水店、行ってみたくなった」


「写真もきれい」


 春菜は礼を言いながら、何度も記事を読み返した。


 亮の言葉が、自分に向けられているような気がした。


 過去を消すものではない。

 思い出しても痛くない場所まで、連れていくもの。


 春菜はようやく気づいた。


 自分は、健太との三年を消したかったわけではない。

 泣いた夜をなかったことにしたかったわけでもない。

 傷ついた自分を、恥ずかしいものとして隠したかったわけでもない。


 ただ、それでも前に進める自分になりたかった。


 そしてもう一つ、気づいた。


 亮も同じだったのだ。


 一人のための香りには価値がない。

 そう言われて傷ついた亮が、それでも自分の香りを信じようとしている。


 White Blendは、春菜だけの香りではなかった。


 春菜が自分を取り戻す香りであり、

 亮が自分の仕事をもう一度信じるための香りでもあった。


 春菜はスマホを握った。


 亮に連絡しようとして、手を止める。


 メッセージでは足りない。


 会って、自分の言葉で伝えたい。


 クローゼットの前に立つ。


 白いブラウス。

 白いスカート。

 白いワンピース。


 白は、忘れるための色だと思っていた。

 昨日までの自分を洗い流す色だと思っていた。


 でも、亮と出会ってから少しずつ変わった。


 白は、空っぽの色ではない。

 消えるための色でもない。


 これから何色にもなれる色だ。


 春菜は、白いワンピースを手に取った。


 髪を整え、薄く口紅を塗る。

 手首には、まだ試作の香りがほんの少し残っていた。


 春菜は白い日記帳をバッグに入れた。


 そして、亮の店へ向かった。



   *



 Lumière Blancheの扉を開けると、鈴の音が鳴った。


 亮が顔を上げる。


 一瞬、驚いたような顔をした。

 それから、ほっとしたように微笑んだ。


「来てくれて、よかったです」


 その言葉を聞いた瞬間、春菜は泣きそうになった。


 でも、今日は泣くだけでは終わりたくなかった。


「来たかったんです」


 春菜は言った。


 亮は、静かに頷いた。


「記事、読みました」


「ありがとうございます」


「とても、いい記事でした」


「亮さんの言葉がよかったからです」


「春菜さんが、ちゃんと受け取ってくれたからです」


 春菜は少しだけ笑った。


「香り、完成したんですよね」


「はい」


 亮はカウンターの奥から、小さな白い瓶を取り出した。


 透明な瓶。

 白いラベル。

 手書きの文字。


 White Blend


 春菜は、両手でその瓶を受け取った。


「きれい」


「春菜さんの香りです」


 春菜は瓶を見つめた。


「これは、失恋を忘れるための香りですか」


 亮は、首を横に振った。


「違います」


 静かな声だった。


「これは、春菜さんがもう一度恋をしてもいいと思える日のための香りです」


 春菜の目に、涙が浮かんだ。


 亮は続けた。


「初めて会った日、春菜さんは泣いていました」


「はい」


「でも、泣いているのに、春の光みたいな人だと思いました」


 春菜は、息を止めた。


「本当は、あの日から惹かれていました」


「……あの日から?」


「はい。でも、泣いているあなたに、好きだなんて言いたくなかった」


 亮の声は、静かだった。

 けれど、隠しきれない熱があった。


「あなたが誰かに傷つけられた直後に、僕の気持ちを差し出したくなかったんです」


 春菜の目に、涙が浮かんだ。


「あなたがちゃんと前を向いて、自分の足でここへ来る日まで、待ちたかった」


「亮さん……」


「今日、白い服で来てくれた時、思いました。やっと言ってもいいんだって」


 亮は、まっすぐ春菜を見た。


「好きです。春菜さん」


 まっすぐな言葉だった。


 静かで、でも逃げ場のないくらい誠実な言葉だった。


 春菜は、小瓶を胸の前で包むように持った。


「私、怖かったんです」


「はい」


「また恋をして、また終わったらどうしようって」


「はい」


「また、自分だけが本気になって、置いていかれたらどうしようって」


 亮は、少しも急かさずに聞いていた。


「でも、亮さんといると、終わることより、始まることを考えたくなるんです」


 亮の目がやわらいだ。


 春菜は涙をこぼしながら笑った。


「私、もう過去を消したいんじゃない」


 亮は黙って春菜を見つめた。


「あなたと、新しいページを書きたいです」


 言い終えた瞬間、春菜の胸の奥で何かがほどけた。


「私も、好きです」


 亮は、White Blendの瓶を受け取り、春菜の手首に香りを少しだけつけた。


 白い花。

 春の陽ざし。

 眠れなかった夜。

 白ワイン。

 洗いたてのシャツ。

 そして、新しく始まる恋の香り。


 春菜は目を閉じた。


 もう、春は痛くなかった。


 亮がそっと春菜の手を取った。


「触れてもいいですか」


 春菜は頷いた。


 亮の腕が、春菜をやさしく包む。


 強く抱きしめるのではなく、壊れものを守るような抱きしめ方だった。

 けれど、その腕の中はとてもあたたかかった。


 春菜は、亮の胸に額を寄せた。


「亮さん」


「はい」


「私、白い服を着てきてよかったです」


「とても似合っています」


「今日は、忘れるためじゃないんです」


「はい」


「あなたに、きれいだって言ってもらいたくて」


 亮は、少しだけ息をのんだ。


 それから、春菜の頬に指先で触れた。


「今日も、きれいです」


 春菜は照れたように笑った。


 亮は、ゆっくりと顔を近づける。


 春菜は目を閉じた。


 春の光の中で、二人はそっとキスをした。



   *



 春菜の記事をきっかけに、Lumière Blancheには少しずつ客が増えた。


 大きな行列ができるほどではない。

 けれど、記事を読んだ人たちが、ぽつりぽつりと訪れるようになった。


「自分のための香りを作ってほしくて」


「眠る前につける香りがほしくて」


「春を好きになりたくて」


 亮は変わらなかった。


 一人ひとりの話を聞き、その人のための香りを作った。


 大手ブランドからの復帰の誘いも、正式に断った。


「迷わなかったんですか」


 春菜が聞くと、亮は少し笑った。


「少しは迷いました」


「そうなんですか」


「でも、春菜さんの記事を読んで、思ったんです。ここで作る香りにも、ちゃんと届く場所があるんだと」


 春菜は胸が熱くなった。


「私の記事が?」


「はい。僕にとっても、必要な記事でした」


 春菜は照れて、視線を落とした。


「それなら、書いてよかったです」


「ありがとうございます」


 亮はそう言って、春菜の手を握った。


 春菜もまた、仕事の中で少しずつ自信を取り戻していった。


 以前なら、相手の顔色を見て言えなかった意見を、少しずつ言えるようになった。

 無理な依頼には、きちんと無理だと言えるようになった。

 自分の書いた文章を、前より少し信じられるようになった。



   *



 健太が春菜の記事を読んだのは、公開から数日後のことだった。


 共通の知人が、何気なく送ってきたリンクだった。


『これ、春菜ちゃんの記事じゃない? すごくいいね』


 健太は、仕事の休憩中にその記事を開いた。


 画面の中には、小さな香水店の写真があった。


 白い棚。

 透明な瓶。

 窓辺の花。

 そして、記事の最後に、小さく春菜の名前が載っていた。


 健太は、ゆっくりと文章を読んだ。


『香りは、過去を消すものではありません。思い出しても痛くない場所まで、その人を連れていくものだと思っています』


 健太は、その一文で指を止めた。


 春菜らしい、と思った。


 けれど、すぐに違うと思った。


 自分の知っている春菜は、こんなにまっすぐ自分の言葉を出す人だっただろうか。

 いつも相手に合わせて、空気を読んで、言いたいことを少し飲み込む人だったのではないか。


 いや、違う。


 春菜はもともと、こういう言葉を持っていたのだ。


 自分が、見ていなかっただけだ。


 記事の下に、小さな写真があった。


 白い服を着た春菜が、香水店の前で笑っている。

 その笑顔は、健太と一緒にいた頃よりも自然だった。


 健太は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。


「俺が、見てなかっただけだったんだな」


 誰に言うでもなく、そうつぶやいた。


 春菜にときめきがなくなったのではない。


 自分が、春菜にときめく心を置き忘れていただけだった。


 でも、もう遅い。


 写真の春菜は、健太の知らない香りをまとっているように見えた。


 健太の知らない春菜になっていた。


 健太はスマホを伏せた。


 連絡はしなかった。


 今さら謝っても、戻れるわけではない。

 今さら褒めても、春菜の春には入れない。


 そのことだけが、静かに胸に残った。



   *



 春の終わり。


 桜の花はすっかり散り、街路樹の緑が濃くなり始めていた。


 春菜は、亮の店の窓際で白い日記帳を開いていた。


 最後のページではない。

 新しいページだった。


 ペンを持ち、ゆっくりと書く。


『春は、もう痛くない。

白は、もう空っぽじゃない。

今日、私は恋人の香りをまとっている』


 書き終えたところで、後ろから亮が春菜を抱きしめた。


「春菜さん」


「なに?」


「来年の春も、白を着てくれますか」


 春菜は笑った。


「うん。でも、忘れるためじゃないよ」


「知っています」


「亮さんに、きれいだって言ってもらうため」


 亮は、春菜の頬に触れた。


「来年も、その次の春も言います」


「約束?」


「約束です」


 春菜は振り返り、亮を見上げた。


「じゃあ、私も約束します」


「何を?」


「来年の春も、ちゃんと自分の足でここに来る」


 亮はやわらかく微笑んだ。


「待っています」


「迎えに来てくれないの?」


「迎えに行きます。でも、春菜さんはきっと、自分で歩いて来る気がします」


 春菜は少し考え、それから笑った。


「そうかも」


 白いワンピース。

 白い日記帳。

 白い小瓶。


 かつて空っぽだと思っていた白は、今、春菜の中でやさしい色になっていた。


 亮は、春菜の手を取る。


 手首から、White Blendの香りがふわりと立った。


 春の陽ざし。

 白い花。

 眠れない夜を越えた朝。

 そして、始まったばかりの恋。


 春菜は目を閉じた。


 もう、過去は消えなくていい。


 それでも私は、前に進める。


 亮の唇が、もう一度そっと春菜に触れた。


 春の光の中で、二人は恋人になった。


― 完 ―

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


失恋から始まった春菜の春。


最初の彼女にとって、白は「昨日までの自分を洗い流す色」でした。


けれど亮と出会い、

眠れない夜を越え、

自分の痛みを自分の言葉で伝え、

少しずつ前へ進んでいく中で、


白は「空っぽの色」ではなく、


これから何色にでもなれる色へと変わっていきました。


《White Blend》もまた、春菜だけを救うための香りではありません。


春菜が自分を取り戻すための香りであり、

亮が「一人のために香りを作る」という自分の仕事を、もう一度信じるための香りでもありました。


過去は、消えなくていい。


忘れられなくてもいい。


いつか、思い出しても痛くない場所まで歩いていければいい。


そしてその先で、新しい誰かを好きになってもいい。


春菜と亮の春を、最後まで見届けてくださりありがとうございました。


この物語が、読んでくださった方の心にも、やわらかな春の香りを残せたなら嬉しいです。

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