第2話 私
「ただ?ただ……なんですか?」
看護師がカーテンを捲ると、見覚えのある女性が頭に白い包帯を巻きベッドに横たわっていた。呼吸器が白く曇り、胸がわずかに上下している。鼻にはチューブ、腕には点滴を付け、まるで操り人形のようだった。
薄く開いた唇、長い睫毛、頬に残る小さな傷跡……それは紛れもなく、私自身の顔だった。
「ただ……奥様は意識がありません」
医師の言葉が、遠雷のように響いた。まほ が「え……?」と掠れた声を漏らし、私の腕を掴む。でもその指が、誰にも届いていない。隆也が苦しげに身を起こし、こちらを見ている。瞳に映るのは、確かに私なのに、なぜか届かない。
モニターのビープ音が急に速くなり、部屋がゆっくりと傾く。足元が溶けていくような感覚に襲われ、私はカーテンの向こうの自分を見つめ続けた。呼吸器の曇りが、私の吐息のように見えた。
すべてが、遅れて理解された。あの電話は、事故直後に病院から まほ にかかってきたものだった。隆也と私は、同じタクシーに乗っていた。出張から帰る彼を駅に迎えに行き、二人で遅いランチを食べようとこの街へ寄ったのだ。
まほ とはイタリアンレストランで待ち合わせをしていた。事故の瞬間、私は後部座席で隆也の肩に頭を預けていた。激しい衝撃、砕け散るサイドウィンドー、焼け付くような痛み。私は意識を失い、魂だけが抜け出たようにここまで来てしまった。
隆也の目が、涙で歪む。「ごめん……お前を、守れなくて」彼の声が、初めて私に届いた。でももう、触れられない。まほ がベッドの私にすがりつき、嗚咽を漏らす。
「ママ、ママ……起きてよ」
その華奢な背中を、私は抱きしめたかった。指先が、彼女の髪に触れる気がしたのに、何も感じない。
医師が静かに言った。
「脳死状態です。小笠原さんは、奇跡的に軽傷で済みました」
隆也が首を振り、まほ を抱き寄せる。二人が泣く姿を、私はただ見つめることしかできない。白いカーテンが風に揺れ、私の体を優しく覆った。陽光が窓から差し込み、部屋を温かく照らす。でも私の周りだけ、冷えていく。
最後に、隆也が私の手を握った。彼の温もりが、かすかに伝わってくる。
「ありがとう……ずっと、愛してた」
その言葉に、私は微笑んだ。誰も見えないのに。まほ が顔を上げ、私の頬にキスをする。「ママ、大好き......」二人の涙が、私の指に落ちた。熱かった。
視界が白く霞み、ビープ音が長く伸びる。すべてが遠ざかっていく。石畳のレストランで見た陽射し、チェックのテーブルクロス、隆也の笑顔、まほ の声……大切なものたちが、優しく私を包み込んだ。もう、痛みはない。寂しさもない。ただ、静かな安堵だけ。
私は、二人を見守り続ける。永遠に、ここから。




