第七十話 地獄の商会へようこそ! 前編
雇用契約の書類を持ってくると言って、レニードは部屋を出ていった。
待つ間、張り詰めていた緊張の糸がふとした瞬間に切れた。
アレクの体は、雪山での死闘から王宮の騒乱まで、とうに限界を超えていたのだ。ソファに深く沈み込んだアレクは、いつの間にか泥のような眠りに落ちていた。
しばらくして、レニードが戻ってきた。手には、今後の二人の運命を縛る数枚の羊皮紙が握られている。だが、そこには先ほどまで食ってかかってきた少年の姿はなく、力尽きたように深い寝息を立てるアレクがいた。
レニードは無言で立ち尽くし、その寝顔を見つめた。
この少年がどれほどの無理をしてここまで辿り着いたか。その傷だらけの拳や土に汚れた衣服を見れば、言葉など交わさずとも理解できた。レニードは手にした書類を、近くのサイドテーブルへ音を立てないよう静かに置いた。今の彼を叩き起こして署名させるなど、無粋の極みだ。
彼はアレクの傍らに屈み込むと、その体を力強く、かつ静かに抱え上げた。
重たい扉を肩で押し開け、邸宅の廊下を歩く。腕の中のアレクは、まるで全てを預けきったかのように深く眠り続けている。
邸宅の玄関ホールに入ると、そこには案の定、マーサの姿があった。一階の控えの間にいると言いながら一向に戻ってこないアレクを心配し、様子を伺っていたのだ。レニードに抱きかかえられたアレクを見るなり、マーサは驚きに目を見開いて歩み寄ってきた。
「アレク様はどうされたのですか!?」
「……疲れから寝てしまったんだと思います」
レニードの答えに、マーサは「やっぱり」と言わんばかりに小さく溜息をついた。
「まぁ! だから言ったではありませんか、お休みになってからにしてくださいと。あんなに顔色が悪かったのですもの」
「……アレクを部屋で寝かせてやりたいんだが」
「こちらです。準備はできておりますわ」
マーサは甲斐甲斐しく、二人を案内するように階段を上がった。二階の客間に着くと、レニードはアレクを柔らかな寝台に静かに横たえた。マーサが手際よく靴を脱がせ、毛布を掛ける様子を見届けた後、レニードはふと思い出したように尋ねた。
「……ヴィクトリア様は、どうされていますか?」
「お嬢様なら、先ほどお目覚めになりました。今は少し落ち着いておいでです」
その言葉に、レニードの表情が引き締まった。
「……そうですか。ならば、アレクのことも含めて報告してこなければなりませんね」
レニードは静かに部屋を後にし、ヴィクトリアの部屋へと続く廊下を歩き出した。
部屋をノックすると「どうぞ」という声が響き、中へ入る。眠ったおかげか、ヴィクトリアの顔色は少し赤みがさしていた。レニードは留守中の商会の様子や当面の予定を報告した後、本題を切り出した。
「それと」
「なんだ?」
「アレクが、こちらで働きたいと」
「アレクはうちでなんの仕事をする気だ?」
レニードはその返事に拍子抜けした。てっきり、反対されるものだと思っていたからだ。
「……商会の実務になりますが、私としては、お嬢様の護衛としての仕事を中心にやってもらって、外出時などは特に――」
「護衛?」
ヴィクトリアは、ふっと笑い出した。
「何か、おかしい事でも?」
「レニード、お前は。私が護衛を必要とする人間に見えるのか?」
「……正直、お嬢様に護衛は必要ないとは思いますが。それでも、ラナハイムのような事が今後もないとは限りませんし」
「ふぅん。そうなったら、アレクを盾にして私は安穏というわけか?」
ヴィクトリアが誰かを犠牲にしてまで、自分だけを安全圏に置くような性格ではないことを、レニードは誰よりも知っている。だからこそ、彼は言葉に詰まった。
「そういう意味で私は、アレクを護衛に就かせるつもりでは……。いや、しかし……」
レニードは必死に言葉を探していた。ヴォルフの右腕として、商会の一切を取り仕切る差配人である彼にとって、主人の安全は何よりも優先されるべき実務だ。だが、目の前の少女はその正論をいとも簡単に切り捨てる。
「アレクがここで働きたいと言うなら、それはあいつの意思だ。私は反対しない。だが、護衛というのは却下だ。あいつにはユリウスと同じように、せいぜい『学んで』もらうことにするよ」
ヴィクトリアが浮かべたのは、単なる慈悲でも、冷徹な計算でもない、どこか含みのある微笑だった。レニードはその笑みの意味を測りかねて、背筋に冷たいものが走るのを感じた。だが、彼はそれを悟られぬよう、至って冷静な顔をつくろった。
「……わかりました。報告は以上です。私はこれで失礼いたします」
静かに部屋を退出しかけたレニードに、ヴィクトリアが言葉を重ねた。
「……長いこと商会を留守にして、その間、色々と苦労をかけたな。なにせ親父はてんで頼りにはならない。これからも……頼むぞ、レニード」
レニードは無言で一礼すると、重厚な扉を閉めた。
廊下に出た途端、彼は肺に溜まっていた重苦しい空気を一気に吐き出した。
「(ユリウスと同じように学ぶ……か)」
それは決して、ユリウスが受けているような文字や計算の平穏な教育ではないはずだ。
アレクにとっては、ただの護衛や雑務として扱われる方が、まだマシだったのかもしれない。いや、そもそもルベライト商会で働くという選択をしない方が、アレクは地獄を見ずに済んだはずなのだ。
だが、あの少年は自ら望んで、この底知れぬ沼に足を踏み入れた。
レニードは、二階の客間で泥のように眠っている少年の姿を思い浮かべた。
これからアレクを待ち受けるであろう、ヴィクトリアからの苛烈な「洗礼」。それを思うと、鉄の心を持つ差配人の胸中にも、ほんの少しだけ彼に対する気の毒さが込み上げてくるのだった。
活動報告にも書いておりますが
『勇者に盾は必要か?』改訂版始めております。
こちらの旧作は七十九話まで書いていますので、そこまでは公開はします。
旧作としてこの先も残しておきますので
読み比べてみるのを一興かと思ってます。




