第七十一話 地獄の商会にようこそ!中編
客間の柔らかな寝台で、アレクは目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、見たこともない豪華な天蓋だ。一瞬、自分がどこにいるのか分からなかったが、部屋に控えていたマーサの顔を見て記憶が蘇った。
「目覚められましたか、アレク様。お嬢様が、今夜の夕食は一階の食堂でご一緒に、と仰っております」
マーサの言葉に、アレクは先ほどのレニードとの会話を思い出した。ここで働くと決めた以上、もう以前のように「ヴィック」と気安く呼ぶことは許されない。
「(……ヴィクトリア、お嬢様)」
心の中でその名前を何度も反芻するが、やはり胸の奥がチリりと痛むような、妙な違和感は消えなかった。
「まずはお体をお拭きいただけるよう、温かいお湯と手拭いを用意いたしました。着替えもございますので、汚れを落としてさっぱりとなさってください」
鏡に映った自分を見ると、衣服は泥汚れがこびりつき、おまけにボロボロと穴も空いていた。
マーサが用意してくれた新しい服に着替える。それは上質な生地で仕立てられた、これまでアレクが着ていたものとは比べ物にならないほど立派なものだった。
やがて夕食の時刻となり、アレクは案内されて一階の食堂を訪れた。
高い天井に、長い黒檀のテーブル。
一番奥にある、本来ならこの家の主であるヴォルフが座るべき主座は、主の不在を強調するようにぽっかりと空いている。ヴィクトリアはそのすぐ脇、主座を監視するかのような位置に座り、燭台の炎に照らされて静かにこちらを見ていた。
新しい服に身を包んだアレクが食堂に入ると、ヴィクトリアはまじまじとその姿を見つめた。
「よく似合ってるじゃないか、アレク」
ヴィクトリアが愉快そうに声をかける。
「え~、でも……これは、さすがに立派すぎないか?」
戸惑いながら、アレクはヴィクトリアから少し離れた、客人が座るべき位置に腰を下ろした。
「それはうちの親父のだ。作ったはいいが、出来上がった時にサイズが合わなくなったからな。腹回りが。……だが、丈が長いな。糞オヤジはあれでも190センチもある大男だからな」
実際、見かねた邸宅の使用人たちが急いで服を詰めたのだが、それでもまだアレクには少し大きい。
「ヴィック、似合うっていうのは……おべんちゃらだろ?」
アレクはついうっかり、いつもの癖で名前を呼んだ。
だが、すぐさまアレクはレニードとの「ケジメの約束」を思い出し、ハッとして顔を強張らせた。
「(いけない、ここでは『お嬢様』と呼ばなきゃいけないんだ)」
アレクは膝の上で拳を握り、覚悟を決めて喉の奥から言葉を絞り出した。
「あ……いや。……失礼しました、ヴィクトリアお嬢様。……その、お気遣い感謝します」
「……アレク。お前、今なんて言った?」
ヴィクトリアの瞳には、先ほどまでの愉快な色は微塵もなく、代わりに底知れない苛立ちが渦巻いていた。
「…… ヴィクトリア、お嬢様……」
「気持ちが悪い。なんだ!それは!!」
ヴィクトリアの声が、食卓に響き渡たり、緊張が走った。
その緊張が伝染したのか、給仕を担当していた若いメイドの手が震え、持っていた磁器のボウルが床に叩きつけられた。
ガシャンッ! と激しい音が鳴り響き、破片が飛び散る。
「も……申し訳ございません! 」
メイドは顔を真っ白にし、震える手で破片を拾おうとして、鋭い断面で指先を切ってしまう。ボタボタと床に落ちる鮮血。アレクが思わず腰を浮かせかけたその時、背後に控えていたマーサが、穏やかながらも揺るぎない声を出した。
「片付けはしなくてもよいです。戻って傷の手当てをしてきなさい。……後のことは他の者に任せます」
「は……はいっ」
メイドは涙目になりながら、足早に食堂を出ていった。その後の片付けは、他のメイドたちが訓練された動きでテキパキとこなし、瞬く間に床は元の輝きを取り戻した。
一連の騒動を不機嫌そうに眺めていたヴィクトリアに、マーサが静かに、しかし毅然と告げる。
「ヴィクトリアお嬢様。お腹立ちはわかりますが……ここは食卓でございます。恫喝するようなことはなさらないでくださいませ」
その忠告に、ヴィクトリアの左眉がぴくりと上がった。
「恫喝だと! 私がいつそんなことをした」
「ほら、それでございます。うちのメイドたちは、商会の人間のように荒くはできておりません。お嬢様、もう少しお上品に言葉を選んでお話しくださいませ。……美味しい食事が台無しになります」
マーサはまるでお転婆な子供を諭すような口調で言い切った。ヴィクトリアは不満げに鼻を鳴らしたが、それ以上の追及はせず、再びアレクに向き直った。その瞳には、先ほどまでの冷徹な殺気とは違う、もっと個人的で、苛立ちの混じった熱が宿っている。
「アレク! 私は旅の時にも言ったよな。お前が『ヴィック様』と呼ぼうとした時に、様は要らないと……それと同じだ。お嬢様なんて呼び方をするな!」
「いや……でも……」
「でももヘチマもない! 私がそう言ってるんだ。二度と、お嬢様なんて言葉を使うな!」
ヴィクトリアの断固たる拒絶が、食堂の空気を震わせた。
アレクは、銀食器が並ぶ豪華なテーブルの前で、自分を縛ろうとする「商会の常識」と、それを力ずくで破壊しようとする「ヴィクトリアの意思」の板挟みになり、ただ困惑して座り込んでいた。
そして、ふと思った。
今までずっと、彼女のことは「ヴィック」と呼んできた。それは旅の間、男装をしていた彼女が「ヴィック・クラーク」を名乗っていたからだ。だが、彼女は女性であり、本来なら本名のヴィクトリアと呼ぶべきではないだろうか。
「……それなら、俺はこれからどう呼べばいい? お嬢様が駄目なら、ヴィクトリア、と呼ぶべきなのか?」
「その名前も呼ぶな! 絶対に、その名で呼ぶな」
ヴィクトリアは、スプーンでスープをぐるぐるかき回しながら即答した。その勢いにアレクはのけ反る。
「いや、でも……ラナさんやアイラさんも、現にヴィクトリアって呼んでたじゃないか」
「他の奴がその名前で呼ぶのはいい……。だが、お前は駄目だ!」
「ええっ! なんでだよ!?」
理不尽な拒絶に、アレクは思わず声を上げた。他の者が彼女の本名を呼んでもよいのに、なぜ自分が駄目なのか。その明確な理由が分からないのでは納得がいかなかった。
「お前が私をヴィクトリア呼びすると……私の調子が狂う! とにかく今まで通りヴィックでいい。他の呼び方なんて却下だ」
ヴィクトリアは、逃げるように視線を皿の上に移した。
「ヴィック」と呼ばれている間だけは、性別も過去も関係ない、対等な「相棒」でいられる。だが、彼が「ヴィクトリア」と口にするたび、自分の内側にいる「知らない自分」が暴れだそうとする。
その正体不明の感情を、彼女はただ「苛立ち」として処理するしかなかった。




