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第六十八話ルベライト商会の契約前編

スープを飲み終え、パンを最後の一切れまで口に運んだところで、アレクは重い溜息とともに背もたれに身を預けた。

空腹が満たされると、今度は濁流のように疑問が押し寄せてくる。


ユリウスがなぜここにいるのか。あの日から今日まで、何があったのか。


(……ヴィックに聞ければ一番いいんだが)

彼女の衰弱しきった顔を思い出し、アレクはすぐに首を振った。今は休ませるのが先決だ。

かと言って、先程のマーサにこれ以上踏み込んだ質問をする勇気も出ない。

そこへ、規則正しい足音が近づいてきた。

食堂の重厚な扉が開くと、レニードが立っていた。


「アレクさん。お食事は終わりましたか?」

「レニードさん……。ああ、助かりました」

椅子から腰を浮かせようとしたアレクに、レニードは穏やかな、けれどどこか事務的な響きを含んだ声で続けた。


「それならば、少しお話をしたいのですが、よろしいですか?」

アレクにとって、それは渡りに船だった。

ヴィクトリアは静養中であり、マーサは余計な口を利く相手ではない。ならば、ユリウスをここへ連れて来た当事者であるレニードに聞くのが、最も確実だった。


「俺も、レニードさんに聞きたいことがあるので……」

「そうですか。……では、商会の方へ。ここではなんなので」


レニードの言葉に、アレクは頷いて席を立った。

そこへ、静かに控えていたマーサが口を挟む。


「レニード様。先程、メイドのハンナから、アレク様のお部屋が整ったと連絡がございました。アレク様もお疲れのご様子です。少し休まれてからお話をされてはいかがですか?」

「……あぁ、そうだな」


レニードは改めて、アレクの顔を覗き込んだ。言われてみれば確かにそうだ。目の前の青年の顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。


「あ……俺は大丈夫です」

アレクが即座に返すと、マーサはそれ以上無理に勧めることはせず、頭を下げた。


「そうでございますか。アレク様がそうおっしゃるなら……。私は一階の控えの間におりますので、お話がお済みになられましたら、お声がけください。お部屋にご案内いたします」


アレクは、マーサが口にした「ハンナ」という名前に、微かな既視感を覚えた。クレミス村でヴィクトリアの世話を焼いていた、あの献身的な娘と同じ名だ。

マーサがその名を呼ぶ時、いつもの厳格な響きの中に、ほんのわずかな柔らかさが混じった気がした。

だが、今はそれを尋ねる時ではない。


「ありがとうございます。……行きましょうか、アレクさん」


レニードに促され、アレクは食堂を後にした。

邸宅を繋ぐ渡り廊下を進むにつれ、背後で静まり返っていた空気は、次第に熱を帯びた喧騒へと変わっていった。商会の棟に足を踏み入れれば、そこは別世界だった。


通路から直接店舗の中は見えないが、壁を越えて、客と売り子が値段を競り合う威勢のいい声や、商品の魅力を説く熱心なやりとりが響いてくる。通路では、倉庫から運び出された品物を抱えた職人たちが忙しなく行き交い、アレクの肩をかすめるように通り過ぎていった。


「失礼、通るぞ!」

「あぁ、そこを空けてくれ!」

飛び交う怒号に近い活気。その間を縫うように淀みなく進むレニードに続き、アレクは一階の奥へと進んだ。


レニードが足を止めたのは、店舗の喧騒から少し離れた場所にある、落ち着いた雰囲気の扉の前だった。


「こちらへ。商談や来客を通すための部屋です」


レニードが重厚な扉を開くと、中には対面式の柔らかなソファと、磨き上げられた木製のテーブルが置かれた小ぢんまりとした応接室が広がっていた。


「どうぞ、そちらへ。……今、茶を淹れさせますので」


レニードはアレクに対面のソファを勧めると、自らも腰を下ろした。

間もなくして、足音と共に一人の若い男性が静かに現れた。彼は淀みのない動作で二人の前に温かな茶を置き、一礼して去っていった。

邸宅で見た華やかなメイドたちとは対照的な、規律正しさを感じさせる無骨な給仕。アレクは思わずその背中を目で追い、驚きを隠せずに問いかけた。


「……男の人が、お茶を淹れるんですか?」


レニードが、ふっと口元を緩めた。

「アレクさんがびっくりするのも当然ですね。うちは邸宅の方は女性が働いていますが、こちらの商会の方は男ばかりですよ。彼は接客係の子です」


レニードはそれ以上深くは語らず、自らの茶を一口啜った。

アレクも勧められるまま、目の前の茶を口に含む。驚くほど香りが高く、喉を通り抜ける熱が、強張っていた体の芯をゆっくりと解きほぐしていくようだった。


だが、茶の香りが鼻腔をくすぐると、先ほどから胸につかえていた疑問が再び熱を帯びてくる。アレクは茶器をテーブルに置くと、真っ直ぐにレニードを見据えた。


「レニードさん。……あの、ユリウスがここで働いているということなのですが、本当ですか?」

「ええ、ユリウスはここで働いています。ただ、働いていると言っても、それを『働いている』と言ってよいものかどうか……」

「どうも俺は、レニードさんの言っていることの意味が飲み込めないんですが……」

「厳しい言い方をすれば、彼はまだ担い手ではありません。要は働いている真似というか、お手伝い程度のことをやっているだけです」

「お手伝い……。でも、あの子は『お嬢様に買われたから、働くのが筋だ』と言っていました。あんなに幼い子にそんな風に思わせて、ただのお手伝いをさせているだけ、ということなんですか?」


アレクは思わず身を乗り出した。カナス村でのあの痛ましい光景が蘇る。


「カナス村の親元でユリウスは歓迎された子ではなかった。でもそれでも彼はあそこに残る事を選んだ。それなのに、どうしてユリウスを親元から引き離すマネをしたんですか? 今更それは酷くないですか。確かに人買いに金を払ったのはヴィックですが……」

「アレクさん。……どうやら、根本的な誤解をされているようですね」


レニードはソファに深く座り直し、冷めた茶を一口啜ってから続けた。

「貴方と白カモメ亭で別れたあと、お嬢――ヴィクトリア様ですが、あの子のことを大変気にしておられました。あの方は一度決めたことは絶対に曲げない方ですが……ユリウスを親元に送り届けはしたものの、いつまた親に売られるか分からない状況でしたからね」


レニードは淡々と、けれどその決断に至るまでの重みを噛みしめるように言葉を重ねる。

「だから、私は言いました。そんなに気になるのなら、いっそうちで引き受ければよいのでは、と。本来なら、一度人買いに渡った時点で親に金など払う必要はありません。ですが、改めてユリウスの両親と話し合い、正式に契約を結びました。二度とあの子に干渉しない、そのための対価です。今、ユリウスには僅かではありますが賃金も払っていますし、食事も部屋も与え、何より午前は勉学をさせています。……これらはすべて、ヴィクトリア様が決められたことです」


アレクはその言葉に、黙って俯いた。

自分が「酷い」と断じた行為の裏側にあったのは、ヴィクトリアの不器用すぎるほどの責任感と、あの子の未来を買い戻そうとした執念だった。


「レニードさん。……ありがとうございます。話を聞けて、本当によかった」

アレクは顔を上げ、ようやく少しだけ晴れやかな表情を見せた。


「さて。これでアレクさんの疑問は解けたわけですが……今度は私の疑問に答えてもらいますよ」

と、レニードはニャリと笑った。

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