第六十七話厳かすぎる食卓
緊張の糸が切れた瞬間、腹の底から盛大な音が響き、アレクは我に返った。
静まり返った食堂に、その音はあまりに無遠慮に鳴り渡った。
マーサを前にして、アレクはこれ以上ないほどバツの悪い思いを噛み締めた。
「……すみません。見苦しい音を立ててしまいました」
正直に白状して、アレクは視線を落とした。
すると、それまで完璧な無表情を崩さなかったマーサの口元が、わずかに、けれど慈しむように綻んだ。それは決して、彼を侮蔑するような笑みではなかった。
「謝ることはございませんわ。自然現象でございます。……何か他に入り用があれば、何でもお申し付けくださいませ」
「いえ、十分です。ありがとうございます」
アレクは短く答えてスプーンを取ったが、どうにも食が進まない。
先程の様子から見ても、彼女はこの邸宅の仕事の全てを回し、他の使用人たちに的確な指示を飛ばしている。ここの使用人たちの中でも、彼女がトップの人間なのだろう。
その彼女が、自分に対してまるでお忍びの貴族にでも接するかのように恭しく振る舞っている。それが、どうしようもなく居心地が悪かった。
「あの、マーサさん。……俺は、その、客人でも何でもないので。そんなに馬鹿丁寧な物言いをしなくてもいいです」
耐えかねてそう口にすると、マーサは意外そうに目を丸くした。
「何をおっしゃっているのですか。客人ではないとは。……一体、何を根拠にそのようなことを?」
「何を根拠に、と言われても……」
アレクは言葉に詰まった。
自分がヴィクトリアにとって何者なのか、客観的な答えなど持っていない。だが、この馬鹿丁寧な言葉遣いを自分に向けられると、やはり調子が狂うのだ。
アレクが答えに窮していると、不意に食堂の扉が静かに開き、小さな影が滑り込んできた。
「アレク兄ちゃん!」
弾んだ声と共に、ユリウスがアレクのすぐ隣の席に腰を下ろした。
あの日、カナス村で別れた時とは見違えるほど、その肌には艶が戻り、瞳には生気が宿っている。そしてみすぼらしい衣服ではなく、綺麗に整えられている。
アレクは驚きに目を見開いたまま、隣の少年を凝視した。
「ユリウス、アレク様はこれから食事をなさるのです。お邪魔をしてはいけません」
すかさずマーサの鋭い指摘が飛ぶ。
その厳格な響きに、ユリウスは肩をすくめたが、隣のアレクを離すまいと椅子の端をぎゅっと掴んだ。
「いいんです、マーサさん。……ユリウス、お前、どうしてここに……」
「元気だったのか」と続けようとしたが、言葉が溢れすぎて何から聞けばいいのか分からない。そんなアレクの動揺を余所に、ユリウスは自慢げに胸を張った。
「僕ね……ここで働いてるんだ!」
「えっ!」
アレクの声が裏返った。働いている? 8歳の子供が、こんな大きな邸宅で? 驚愕するアレクに、ユリウスは無邪気な笑顔のまま言葉を重ねる。
「えっとね、レニードさんが僕の家に来て……『うちのお嬢様がお前を買ったんだから、うちで働くのがスジだ』って言ったんだ!」
ユリウスに悪気はなかった。
助けてもらった恩や、ヴィクトリアが提示した「保護」という名の契約を、彼は彼なりの理解で言葉にしたに過ぎない。
だが、それを聞いたアレクの顔から、さっと血の気が引いた。
「買った」という不穏な響き。
「ユリウス、それ、どういう意味だ。ヴィックに、無理やり連れてこられたのか?」
アレクの声が、低く険を帯びる。
「買ったんだから、働くのがスジだ」
もしそれがレニードの口から出た言葉だとしたら、あまりに無慈悲ではないか。
ヴィクトリアを信じたい気持ちと、少年の言葉。その間で、アレクの心は激しく軋んだ。
そんな空気を、マーサが静かな一言で切り裂いた。
「ユリウス。……仕事に戻りなさい。午前中はせっかく勉学の時間を与えていただいているのです。午後からはきっちり働かなければ、バチが当たりますよ」
「あ、そうだった!……アレク兄ちゃん、また後でね!」
マーサに促され、ユリウスは慌てて席を立つと、軽い足取りで食堂を駆けていった。アレクは呆然とその背中を見送り、それから「勉学」という言葉を反芻した。
「……マーサさん。今の、勉強というのは……」
「お嬢様のご意向です」
マーサは短く答えた。
「スープが冷めてしまいましたね。温め直しましょう」
その視線だけで、控えていた給仕のメイドがアレクの前のスープの器を下げる。代わりの新しいスープが運ばれてくると、メイドは淀みない動作で食卓を整え直した。
余計な詮索を許さぬその立ち居振る舞いに、アレクはそれ以上言葉を続けることができなかった。銀のスプーンが触れ合うかすかな音だけが、高い天井の食堂に響く。
温かなスープを一口含むと、驚くほど素直に胃に落ちていった。




