第六十六話 牙城の休息
もう会うことはないと思っていた。
そう思い込むことで、区切りをつけたはずだった、ユリウスがそこにいた。
アレクは、隣で自分の腕を強く握りしめているヴィクトリアへと、ゆっくりと視線を向けた。
「……ヴィック」
その声は、単なる呼びかけを超え、深い震えを伴っていた。
だが、ヴィクトリアは返事をしなかった。
何か言わなければいけないと、アレクは思ってユリウスの方を見たが、言葉が出てこない。それはユリウスも同じだったのかもしれない。二人の視線は空中でぶつかり、そのまま凝固した。ユリウスにとっても、この再会は予想だにしないものだった。
そこへ、真っ先に飛び出して来たユリウスの跡を追って、レニードが駆けつけてきた。
「ヴィクトリア様、お帰りなさいませ……驚きました。まさかこんなに早くご帰宅なさるとは。それに……」
レニードは隣に立つ青年を認め、その目を見開いた。
「アレクさんも一緒だとは。一体どういう経緯で……」
「話はあとだ。アレクの部屋を整えてやってくれ。……それと」
と言いかけた瞬間、ヴィクトリアの身体がガクンと力なく傾いた。
すぐさまアレクは彼女を支えた。間近で見る彼女の顔からは血の気が失せている
「あ……すまない」
彼女は必死に自力で身体を立て直そうとした。だが、アレクはもう、彼女の「意地」に付き合うつもりはなかった。アレクは、その細い身体を軽々と抱きかかえた。
「アレク! 馬鹿、やめろ……っ! 降ろせ!」
ヴィクトリアは抗い、アレクの肩を叩いた。だが、アレクの腕は岩のように動かない。
「何を言ってる! どこまで意地を張れば気が済むんだ。……大人しくしてろ。暴れると落とすぞ」
低く、けれど有無を言わせぬ響き。
ヴィクトリアはぴたりと抵抗を止め、観念したようにその身を預けた。
その様子を見ていたレニードは、主人の容体の深刻さを察し、鋭い足取りで邸宅のほうへと先導を始めた。
商館から続く渡り廊下を抜け、潮風が吹き抜ける白亜の邸宅へと足を踏み入れる。吹き抜けのホールには、一人の年配の女性が静かに控えていた。
「マーサ。ヴィクトリア様の部屋は整えてあるな?」
レニードの問いに、マーサと呼ばれた老婆は、アレクに抱きかかえられた主人の姿を見ても眉一つ動かさず、深く頭を下げた。
「えぇ、お嬢様のお部屋はいつでも整えております」
「流石マーサだ。アレクさん、三階へ! 医者はすぐに向かわせます」
「……レニード。医者は、良い。医者にはもう診てもらっている。私はただの疲労だ……」
ヴィクトリアの拒絶に、レニードは疑問を呑み込んだ。今は理由を問うよりも、彼女を休ませることが先決だった。
レニードとマーサに続いて、アレクは階段を上がる。
磨き上げられた廊下に並ぶ邸宅の使用人たちは、呼吸を忘れたかのように立ち尽くしていた。普段は凛々しく、誰も寄せ付けぬ気高さを纏っている「お嬢様」が、見知らぬ青年の腕の中で力なく揺れている。彼らはただ呆然と、その光景を見守るしかなかった。
三階の突き当たり、重厚な扉が開かれる。
海を一望できる大きな窓から、柔らかな午後の光が差し込む主寝室。潮騒の音が遠くから優しく響いていた。
アレクは慎重に、奥の部屋にある寝室に入ると、彼女を天蓋付きの大きなベッドへと横たえた。
「お嬢様。なにかお召し上がりになりますか?」
枕元に控えたマーサが尋ねる。
「いや、良い」
「それではお着替え……それと、お身体をお拭きいたしますね」
マーサが静かに告げると、ヴィクトリアは重い瞼を微かに持ち上げ、アレクの方を見た。
「マーサ。アレクの部屋を整えてやってくれ。それと……何か食べさせて。この三日間、まともな食事をしていないからな。何か、精の付くものを……」
自分のことは後回しに、淡々と、けれど細やかにアレクの体調を案じる。マーサは静かに頷いた。
「承知いたしました、お嬢様」
マーサが他の女性使用人たちに目配せをすると、彼女たちは音もなく、主人の着替えの準備へと動き出した。
「レニード様。お嬢様のことは彼女たちに任せておけば大丈夫でございます」
マーサの言葉に、レニードはベッドの上の主人を一度だけ見遣り、深く頷いた。
「……あとは頼む。私は商会の仕事に戻るが、もし何かあったらすぐに呼びに来てくれ」
レニードが部屋を後にすると、マーサはアレクの方へ向き直った。
「アレク様。お部屋を整える間、まずは食堂へご案内いたします。お嬢様のお言葉通り、まずは何かお腹に入れなければ」
マーサに促され、アレクは主寝室を後にした。一階の、海に面した食堂へと案内される。
「あいにく、昼餉の時間は終わっておりますが……今あるもので、すぐにご用意させます」
マーサは給仕のメイドに目配せをし、迅速に料理を運ばせるよう指示した。アレクの前に、湯気を立てる食事が並べられていく。
一人、大きな長机に腰を下ろしたアレクは、ようやく深く息を吐いた。
窓の外には、キラキラと輝くソルティの海が広がっている。
命懸けの雪山下山、強行突破の馬車、そして王宮での出来事。押し寄せる記憶の濁流に、アレクは思わず食卓に手をついた。
そこへ、給仕のメイドが最後の一皿を運んできた。
具沢山の温かなスープと、厚切りにされたパン。そして、新鮮な魚を香草で焼いた香ばしい匂い。
緊張の糸が切れた瞬間、腹の底から盛大な音が響き、アレクは我に返った。
すみません六十六話なのに六十七話と書いてしまいました。速攻直しw




