第六十五話 牙城の港町
王都から港町ソルティまでは、馬車で一時間。王都を出発した際、ヴィクトリアは頑なだった。
アレクが向かいの座席を寝台のように使うよう勧めても、彼女はいつものように背筋を伸ばし、座席の端に深く腰を下ろして毅然と座り続けた。
しかし、馬車の揺れに耐えられなくなった彼女は観念したように息を吐いた。
「……限界だな。悪いが、横になる」
168センチと長身の彼女が横たわれば、座席の幅はいっぱいに埋まった。彼女は膝を深く折り曲げ、アレクに背を向けて丸くなるようにして、クッションに顔を埋めた。
「ヴィクトリア」
「……ん?」
クッションに顔を埋めたまま、くぐもった声が返ってくる。
「枕になろうか。……そっちに座って、俺が膝を貸すよ。その方が楽だろ」
言い終わるか終わらないかのうちに、背を向けて丸まっていた彼女の肩がビクリと跳ねた。
「……ば、馬鹿か! お前はッ!!」
顔を埋めたまま、掠れた、けれど弾けるような怒声が飛んでくる。
「……馬鹿はないだろう。俺はただ、少しでも楽に……」
「――常識がないのか! 男の膝を枕にするなど、夫婦でもありえない行為だぞ!」
「……そうなのか? でも雪山の岩穴でも、俺は膝を貸したよな? あの時は黙って受け入れてくれたじゃないか」
もっと言えば接吻だって受け入れた、と言いたかったが、それを言うと怒られそうなので、そっちは流石に言葉にしなかった。
その言葉にヴィクトリアは狼狽えた。
「……あれは、そうだ。あのときはあのときだ。あれはあれ、これはこれっていうやつだ」
「なんだそれ?」
思わずアレクが聞き返すと、ヴィクトリアはさらに深くクッションに顔を埋め、唸るような声を上げた。
「とにかく、もうその話をするな! ……これ以上その話を蒸し返したら、……お前を、この走行中の馬車から引きずり降ろしてやる!」
「……っ、おい、今のお前には無理だ」
「黙れ! 執念でやってみせる!」
必死すぎる彼女の言葉に、アレクはついに噴き出した。
「わかった、わかったよ。俺が悪かった。……大人しくしてるから、もう喋るな」
「……わかればいい」
最後にそう小さく勝ち誇ったように呟くと、今度こそ彼女は静かになった。
ほどなくして、ヴィクトリアの呼吸が深く、一定のリズムを刻み始める。張り詰めていた緊張の糸がようやく切れたのだろう。
アレクもまた、激動の数時間の疲れが押し寄せ、心地よい揺れに身を任せるうちに、いつの間にか意識を失うように眠りに落ちていた。
――ガタン、と大きく馬車が揺れた衝撃で、アレクは目を覚ました。
窓から差し込む陽光は、真昼の鋭い輝きを放っている。
馬車の外からは、荷車が行き交う激しい音や、威勢のいい船乗りたちの怒鳴り声、そして初めて嗅ぐ濃厚な潮の香りが流れ込んできた。
「……ここが、ソルティ……」
アレクは窓の外に広がる景色に、思わず息を呑んだ。
西にある商業都市ラナハイムに匹敵する規模をだった。だが、ここには海と共に生きる人々特有の、剥き出しの活気と熱気が渦巻いていた。
だが、感動に浸っている暇はなかった。
向かいの座席を見れば、ヴィクトリアはまだ深い眠りの中だった。
眩しい太陽の光が、彼女の青白い横顔を無情なほど鮮明に照らし出している。
やがて馬車が速度を落とし、巨大な倉庫が立ち並ぶ通りを抜けて、一際立派な石造りの門をくぐった。
ルベライト商会。
居並ぶ商会でも指折りの富を誇る大商会である。その「牙城」に、ついに辿り着いたのだ。
アレクは眠るヴィクトリアの肩を、躊躇いながらもそっと揺らした。
「……ヴィック。起きてくれ。たぶん馬車が止まったから、ここがルベライト商会だと思う」
呼びかけながら、アレクは改めて窓の外を見遣った。
ヴィクトリアが商人であることは知っていた。だが、まさかこれほどまでの規模だとは、想像すらしていなかった。
「……ん……。……ああ、着いたか」
わずかに瞼を押し上げたヴィクトリアは、意識が朦朧としているはずなのに、その瞬間、瞳に鋭い光を宿した。
彼女はゆっくりであったが自分で身体を起こして、佇まいを直した。
やがて、御者が馬車の扉へと手をかける音がした。
カチリ、という金属音が響き、扉が外側からゆっくりと開かれる。
眩い午後の陽光が車内に差し込み、アレクの目を射た。
アレクは先に馬車を降り、地面に立つと、車内に残るヴィクトリアへ向けて自然に右手を差し出した。
ヴィクトリアは、アレクの差し出した手に自分の手を重ねる。
アレクの手のひらに、彼女の指先が食い込むような力がこもった。それが彼女の「限界」の合図だった。
アレクに支えられるようにして、ヴィクトリアが馬車のステップに足をかける。
その瞬間だった。
「――アレク兄ちゃん!!」
鼓膜を揺らす、聞き覚えのある幼い声。
アレクは一瞬、心臓が止まるかと思った。
眩しい逆光の中、必死な形相で馬車に駆け寄ってきたのは、あの日、カナス村で身を切る思いで別れた少年――ユリウスだった。




