第六十四話 嵐のあとの宰相執務室にて
目を覚ましたヴィクトリアとアレクは、ジュールが手配した馬車に揺られ、静かにルベライト商会へと帰っていった。
二人を見送ったカシアスは、王宮の中庭を横切り、再び宰相執務室へと足を向けた。朝から始まった一連の騒動により、王宮内は今もなお落ち着かない空気に包まれている。
室内では、ジュールが封を押した手紙を無造作に破り捨てているところだった。
「それは?」
「北のソルチャーチ教団本部への抗議文だ。出さずに済んで良かったよ。……まぁ、出したところで、色よい返事など来るはずがないのは分かりきっていたからな」
ジュールは吐き捨てるように言った。北のソルチャーチ教団が「聖域権」を盾に修道士ハンスを連れ去ったことへの強烈な抗議と、罪人の即時引き渡しの要求。だが、教団がそれを呑む可能性など万に一つもない。それはマリア・ロゼを納得させる為のポーズに過ぎなかった。
「そうだな。それにしてもジュール……。俺たちは、北のことばかりしか見えていなかったな」
カシアスの言葉に、ジュールは何かに弾かれたように手を止め、モノクルの奥の目をわずかに見開いて、不可解そうに首を傾げた。
有能な宰相である彼にとって、「北との戦争」という最大の懸念以外に何を考慮すべきだったのか、この時点ではまだ見当もついていなかった。
だが。
馬車の中でヴィクトリアから聞かされたあの「真実」をカシアスは語りだした。
もしあのまま、マリア・ロゼの怒りに任せて教団本部へ砲撃していたら――どうなっていたか。
北の王宮は動かないが、その代わりにもっと恐ろしい事態が起きていたかも知れない。
教団は、この大陸に深く根を張っている。
王侯も、貴族も、兵も、民も――信徒だ。
教団本部への砲撃は、神への反逆と受け取られる。
その瞬間、王宮は外敵ではなく、信仰に刃を向けた存在になる。
「……外敵より先に、内側から崩れていた」
カシアスの低い声が、静まり返った執務室に落ちた。
カシアスが口にした、ヴィクトリアのその予測に、ジュールの顔色は見る間に土気色へと変わった。
「……盲点だった。外交的な損得勘定に囚われて、信仰という名の狂気……そのリスク計算を、完全に見落としていた」
ジュールは力なく椅子に沈み込み、絞り出すようにそう言った。
ジュールもカシアスもソルチャーチ教団の信徒であったが、二人はそれほど信仰深いわけではない。だからこそ気づけなかったのだ。
彼は机の上で指を組み、しばらく何やら深く考え込んでいたが、やがてふとした疑問を口にした。
「……マリア・ロゼ様は、一体どこまで分かっておられたのだろうか?」
ジュールの問いに、カシアスは庭園を見つめたまま、重く口を開いた。
「……あの方はこの世界を壊そうとした方だからな。……全部分かっていて、心中するつもりでやったのかもしれないな」
二人の間に、冷たい沈黙が流れた。自分たちが仕える女王が、国もろともすべてを焼き尽くそうとしていた可能性。その狂気の淵に、自分たちは立っていたのだ。
「恐ろしいな……」
ジュールがポツリと漏らす。
「何を言っている。その恐ろしい女王様の手綱を、お前がこれから先握るんだろう?」
「いや……私が言っているのは、ヴィクトリア嬢のことだ。確か、ヴィクトリア嬢は女王陛下と三十も歳が離れているはずだ。あの歳で……」
ジュールはそこで言葉を切り、震える指先でモノクルの位置を直した。
「……あの若さで、一体どれほどの月日を生きれば、あのような境地に辿り着けるというのだ。まるで、幾度もの人生を繰り返し、世界の終わりを何度も見てきたような……。我々が必死に算盤を弾いてようやく辿り着く答えに、彼女はただ座っているだけで辿り着いている。そう思えてならないのだよ」
ジュールの言葉は、もはや分析ではなく、未知の存在への純粋な畏怖だった。
「……違いないな」
カシアスは静かに頷いた。
そして彼は確信していた。あれは並みの人間では、とても太刀打ちできない相手だと。
ふと、カシアスの脳裏にアレクの存在が浮かんだ。
ヴィクトリアの傍らにいた、あの青年。彼がヴィクトリアに深い好意を抱いているのは、カシアスから見ても明らかだった。
だが、あれほどまでに全てにおいて「格上」すぎる女性を前にしたら、大概の男というものは己のコンプレックスを刺激され、いつか卑屈に歪んでしまうものだ。彼女の放つ光があまりに強すぎて、隣に立つ男は常に自分の影の濃さを突きつけられることになる。
もし、彼がその重圧に耐えきれず、彼女の隣から脱落してしまうようなことがあるならば。
「(……その時は、私が)」
浮かんできた不遜な考えに、カシアスは自分でも可笑しくなった。
自分でも驚くほど唐突で、そして妙に腑に落ちる感情だった。
「……ふっ、くくっ」
窓の外を見つめたまま、カシアスは低く笑い声を漏らした。
「カシアス大尉? 何かおかしなことでも?」
怪訝そうに顔を上げたジュールに、カシアスはひらひらと手を振って応えた。
「いや……自分で自分がおかしくなっただけだ」
カシアスの瞳には、ひそやかな火が灯っていた。それはヴィクトリアという存在に対する、一人の男としての、静かな興味と矜持だった。




