第六十三話 共鳴する虚無
「……アレク。すまないが、私を起こしてくれないか。寝たままで話すというのは、どうも調子が出ない」
だが、アレクが動くより先に、マリア・ロゼが身を乗り出した。
「そんなのは容易いことじゃあ! そっちの男の手を煩わせずとも、この私がやってやる!」
女王がその白く細い手をヴィクトリアに伸ばそうとした、その時だった。
「ロゼ様は、よいです」
冷ややかな拒絶が、マリア・ロゼの動きを止めた。
「女王陛下ともあろうお方が、商人の、それも平民の体を起こす手伝いをなさるなんて……示しがつきません。……それと、もう少し離れていただけますか? そうベッタリと傍に寄られては、話がしにくいです」
マリア・ロゼは、目に見えてショックを受けていた。伸ばしかけた手を所在なげに宙に浮かせ、大きな瞳にみるみるうちに困惑の色が広がっていく。
東のローゼリアン王国の女王たる方の子どものような反応がアレクはおかしくて仕方がなかった。彼は必死に笑うのをこらえた。
だがそれはアレクだけではなかった。
ジュールは視線を中空に泳がせ、カシアスは唇を硬く結び、互いに「絶対に笑うな」と視線で殺し合っているかのように、必死に顔を強張らせている。その表情は、まるで精巧な仮面を貼り付けたかのように引きつっていた。
ヴィクトリアは、そんな彼らの反応には一切構わず、アレクの支えで上体を起こすと、ようやく深く一つ、息を吐いた。
「マリア・ロゼ様。……貴方がやらなくても、滅びゆくモノは滅びます。決して、歴史に悪女として名を残さないでください」
室内の温度が、一気に数度下がったかのような錯覚を覚えた。
「……なんのことじゃあ? ヴィクトリア」
マリア・ロゼの声は、震えていた。先ほど叱られた子供のような困惑ではない。もっと根源的な、自分の心の深淵を覗き込まれた者の戦慄だ。
「この大陸のすべてを、貴女が壊さなくてもよいと言っているのです。私は」
「私が……何を、どう壊すというのじゃあ!」
マリア・ロゼが叫ぶ。それは否定ではなく、悲鳴に近かった。
しかし、ヴィクトリアは容赦なく、その喉元に言葉の刃を突き立てる。
「すべての王位や、権力をです」
その瞬間、マリア・ロゼの肩が大きく震えた。
彼女が胸の奥底に秘めていた「破壊衝動」――あるいは、古い世界を根こそぎなぎ倒そうとする苛烈な意志。それをヴィクトリアに見透かされていたのだ。
「……なぜ私がそれを……それを望んでいると思うのじゃあ! お前は、預言者か何かなのか、ヴィクトリア!?」
マリア・ロゼの叫びは、もはや悲鳴だった。
誰も彼女の奥底に眠る「世界への復讐心」を見抜いたものなどいない。
「私は預言者ではありません。……ですが、この世界で最も大事なものを失って、魂が半分壊れた人間です。それは、マリア・ロゼ様も同じでしょう?」
ヴィクトリアの淡々とした、けれど温かな響きさえ含んだ声が室内に満ちる。
マリア・ロゼは息を呑み、言葉を失った。
ヴィクトリアは、この世で最も愛した馬・サンダーを失った
そしてマリア・ロゼは、唯一心を許した親友であり、ヴィクトリアの母であるルカを奪われた。
二人の足元に広がっているのは、同じ色をした底なしの沼だ。
「私は、サンダーがこの世界にいなくなって、まず悲しみがやってきました。……その次に、この世界が憎くて憎くて仕方がなかった。何もかも、壊れてしまえばいいと思ったのです」
ヴィクトリアは、遠くを見るような瞳で続け
た。
「死ぬ事も考えた事もあります。だが私は死ねなかった。生きる事を決めた時、私はこの世界を壊すことより、新しくひとつずつ正すべきだと思ったのです 」
「……あ、……」
マリア・ロゼの唇が戦慄き、その目から大粒の涙が溢れ出した。
「ロゼ様、王位継承戦で味方だった者、敵だった者、命だけではない、色々なものが失しなわれました。その代償のうえでの王位です。だからこそ貴方は破壊の女王に等ならないでください。これは私の願いです」
マリア・ロゼは、ヴィクトリアの言葉に絶句した。
復讐の炎に身を焦がし、「何もかも焼き払えば楽になれる」と信じていた自分の思考が、いかに短絡的であったかを突きつけられたからだ。
女王は声を上げて泣きじゃくった。女王としての威厳も、復讐に燃える烈火のような意志も、ヴィクトリアの差し出した「生きるための手」の前では霧散していく。
そのやり取りを聞いていたカシアスも、また深く頭を垂れた。
「壊れるべきだ」と呪っていたのは、彼自身も同じだった。
あの王位継承戦で、敗れたローザー公であった父は自害した。彼の父は自分から王位を欲したわけではない。周りの人間から神輿を担ぎ上げられただけである。
ヴィクトリアの「一つずつ正す」という言葉は、彼の凍てついた心に、途方もなく遠いけれど、確かに歩むべき道筋を示していた。
「そういうわけだ…ジュール!」
まさか自分に振られるとは思わなかったジュールは、弾かれたように顔を上げた。
「陛下が暴れたら、お前がなんとしても止めろ。それが宰相だ…二度はない。私を奥の手にするな」
流石にそこまで言うと、ヴィクトリアの表情には再び濃い疲労が滲み始めた。
「ヴィック、大丈夫か?」
彼女の異変をいち早く察したアレクが、心配そうに声をかける。すると、それを見たマリア・ロゼが慌てて身を乗り出した。
「そ、そうじゃあ! 横になれ! 無理をするなヴィクトリア。……何をしておるお前ら、ヴィクトリアを疲れさせるではない!」
一番の原因はマリア・ロゼだ。
アレクだけでなく、ジュールもカシアスも、そのあまりの言い草に開いた口が塞がらなかった。
だが、ジュールはすぐに気を取り直し、モノクルの奥の瞳に悪戯っぽい光を宿した。
「ヴィクトリア様、貴女のお言葉、誠に御尤もです。……これからは私が遠慮なく陛下の手綱を握り、決して暴走せぬよう計らいたいと思います」
「なんじゃとぉ!」
「そういうわけですから。さあ、退室いたしましょう、マリア・ロゼ様」
この光景に、ついに我慢の限界を超えたカシアスが、ついに「……ふっ、くくっ」と噴き出してしまった。
「カシアス! ……それにジュール、この不届き者どもめ! 我が廷臣どもは、どいつもこいつも私を敬うという気がないのか! わかった、もう部屋に戻る!」
マリア・ロゼは廊下に控えていた侍女を伴い、物凄い剣幕で去っていった。その足取りには、先ほどまでの絶望の影はなく、いつもの猛々しさが戻っていた。彼女はもう、泣いてはいなかった。
「ヴィクトリア様。帰られるのでしたら馬車を手配しておきます。それまで、しばらくお休みください」
そう言って、ジュールも一礼して退室した。
静かになった室内には、ヴィクトリアとアレク、そしてカシアスの三人が残された。
「……それでは、私も退室させてもらう」
カシアスが背を向けようとしたとき、ヴィクトリアが静かに呼び止めた。
「カシアス。……何か、色々と話さねばならないことがある気がするが。……まぁ、今回は苦労したな。お互いに。多分、クレミス村の男どもがお前にずいぶん嫌な思いをさせたのだろう。……済まなかった」
カシアスは驚いて足を止めた。
「……なぜ、貴女が謝るのですか?」
「私はこれでも、あの村の族長の血筋の人間だからな。身内の無礼は、私の無礼だ」
カシアスはしばらく無言で彼女を見つめていたが、やがて深く、敬意を込めて一礼した。
「……貴女は、本当に尊きお方だ」
カシアスが静かに扉を閉め、部屋には本当の静寂が訪れた。
それからしばらくして。
馬車の準備が整ったことを知らせるため、カシアスが再び医務室の扉を開けた。
「ヴィクトリア、準備ができた。移動を……」
カシアスは、扉の先で言葉を止めた。
朝日が差し込み始めた静かな室内。
ベッドの上では、あれほど頑なに「帰る」と言い張っていたヴィクトリアが、糸が切れたように深い眠りに落ちていた。
そしてその傍らでは、椅子に座ったままのアレクが、重力に逆らえなくなったように頭を垂れて眠っている。
アレクの手は、ベッドの上のヴィクトリアの、今にも消えてしまいそうだった小さな手を、壊れ物を扱うような優しさで包み込んでいた。
繋がれた二人の手と、穏やかな寝息だけが、その過酷な旅の終わりを物語っていた。
カシアスは、二人を起こすのをためらうように、しばらくその光景を黙って見つめていた。




