第六十一話 扉の向こう側前編
カシアスがヴィクトリアを医務室のベッドへと横たえると、すぐさま呼び出された王宮侍医の老人が現れた。彼は手早く彼女の瞼をめくり、脈をとり、呼吸を確認する。
侍医は小さく溜息を吐き、水を含ませた布でヴィクトリアの額の泥を拭い始めた。
その時、ベッドの傍らから離れようとしないマリア・ロゼが、食い入るように彼女の顔を見つめ、矢継ぎ早に問いを投げかけた。
「……息は、あるのか? 熱はないのか? 何か口には含ませたほうが良いか?」
不安に駆られた女王の問いに、侍医は眉をひそめた。彼はヴィクトリアの傍らから立ち上がると、無遠慮に声の主へと向き直る。
「陛下」
「何事じゃ。私はヴィクトリアの様子を……」
「おられると、気が散る」
侍医は女王の言葉を遮り、冷徹に言い放った。
「私が診察と処置を行う間、陛下のような尊いお方が側にいては、私の手元が狂う。……彼女を早く目覚めさせたいのであれば、一刻も早くこの場からお下がりください」
医務室に、一瞬の沈黙が走る。
その場にいたカシアスでさえも、侍医のあまりの物言いに目を見開いた。マリア・ロゼは、信じられないものを見るように侍医を凝視する。だが、侍医は微動だにせず、ヴィクトリアの顔を自分と女王の間に遮るようにして立ちはだかった。
「私は女王であるぞ! 誰の命令も受けぬ」
マリア・ロゼが気圧されぬよう声を荒らげるが、侍医は表情一つ変えずに言葉を返した。
「ならば私は医師です。私が退室を命じたのです。マリア・ロゼ様だけではありません。皆さん退室を!」
その毅然とした、しかし一切の妥協を許さない響きに、マリア・ロゼは唇を噛みしめた。これ以上食い下がれば診察が遅れるという道理を突きつけられ、彼女は悔しげに踵を返した。
マリア・ロゼやカシアス、そして他の者たちが部屋を出て行くのを見届け、侍医は静かに扉を閉めた。重厚な扉が閉まる音が、この一室が「聖域」になったことを告げていた。
医務室の重厚な扉がぴしゃりと閉ざされ、廊下には気まずい静寂が降りた。
マリア・ロゼは扉を睨みつけたまま、荒い息を吐き出していた。その背後には、女王の動揺を察してか、表情を殺したお付きの侍女が二人、影のように静かに控えている。
女王の目は、固く閉ざされた扉の一点だけを凝視していた。
玉座で放ったあの苛烈な言葉も、他者を寄せ付けぬ威厳も、今の彼女からは消え失せている。そこにあるのは、ただ、かけがえのない友を失うことを極限まで恐れる一人の女性の姿だった。
「……あの子の見たか?青い顔をして……。私が、私が……」
マリア・ロゼは、誰に聞かせるともなく、震える声で独り言を漏らした。
侍女の一人が、主の背にそっと手を添えようとして――そのあまりの張り詰めた空気感に、触れることができずに手を止める。
カシアスもジュールも、そしてアレクも、その背中を黙って見守るしかなかった。今のマリア・ロゼには、周囲に誰がいるかさえ、もはや意識の外にあるようだった。
マリア・ロゼが自責の言葉を漏らす傍らで、アレクの心には、言葉にできない感情が濁流のように渦巻いていた。
彼女が倒れる瞬間に、一番近くにいながら支えることさえできなかった自分への無力感。
マリア・ロゼのように、嘆きを口にすることもできない。
この豪華な廊下においては、場違いなほどの余所者に過ぎないのだという現実が、冷たく彼を刺していた。
だが、それでも。
扉の向こうにいる彼女の無事を願う気持ちだけは、ここにいる誰にも負けない。その想いだけが、彼をその場に立たせていた。
『本編読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
倒れたヴィクトリアは、王宮侍医の老人に委ねられた。付き添おうとするマリア・ロゼに対し、侍医は女王の威光さえ撥ね除け「気が散る」と退室を命じる。重厚な扉の向こう側が「聖域」となる中、廊下に取り残された女王とアレクたちは、それぞれの自責と無力感に苛まれながら無事を祈り続ける。




