第五十九話 眠れる城を叩き起こせ 後編
「……カシアス。まさか、本当にお前という男は……」
ジュールは眼鏡の奥の目を限界まで見開き、カシアスの背後に立つヴィクトリアを凝視した。
この執務室でカシアスが「連れ戻してくる」と言い放った時、ジュールはそれを唯一の希望として縋った。だが、現実的に考えれば、どんなに急いでも往復に二週間はかかる。
それが、今、目の前に立っている。東の女王マリア・ロゼがその身を案じ、世界を灰にしようとしていた「東の至宝」その人が。
「ジュール、約束通り連れてきたぞ。最高に機嫌は悪いがな」
カシアスの不敵な言葉に、ヴィクトリアが鋭い視線を向ける。
「当然だ! 銃で死にかけ、雪山で死にかけ、馬車でも死にかけた……。三回も死ぬ思いをしたんだ。機嫌が悪いとかそんなレベルではないぞ! 私は!」
「御尤もです。それでも我々はあなたを……」
ジュールは膝から崩れ落ちそうになるのを、机に手をついて堪えた。彼女が生きてここにいる。その事実だけで、北との全面戦争という最悪のシナリオは霧散し、女王の砲撃命令を取り下げさせる「最強の根拠」が手に入ったのだ。
「……マリア・ロゼ様は、まだお休みで?」
カシアスの問いに、ジュールは首を横に振った。
「いいや。陛下がまともに眠られたという話は聞かない。今もおそらく、私室で夜明けの風に当たっておられるはずだ。……侍従たちの話では、近づくことさえ恐ろしいほどの殺気だという」
「ふん、相変わらず情熱的なことだ」
カシアスは鼻で笑った。
その横で、ヴィクトリアは口角を吊り上げる。
「では今すぐ女王陛下に謁見を申し込む。『貴方が待ち望んでいた答えを連れてきました』、そう言え! ジュール。……くれぐれも、私が戻ったとは言うな。逃げられては困るからな」
「……承知いたしました。すぐに手配いたします」
ヴィクトリアの意図を察したジュールは、執務室を飛び出した。
その姿は、およそ一国の宰相とは思えぬものだった。寝間着の上にシルクのガウンを羽織っただけ、足元は室内履きのまま。なりふり構わぬ姿で、彼は宮殿の廊下を駆けた。
「宰相閣下!? そのお姿は……」
「すぐに廷臣たちを 謁見の間へ集めるんだ、一刻を争う!」
あの完璧主義のジュールが、身だしなみさえ捨てて奔走する姿に、廷臣たちは「とんでもないことが起きた」と戦慄し、不満を漏らす暇もなく正装を整え、謁見の間へと雪崩れ込んだ。
ジュールは女王の私室へ入る直前、震える侍従からひったくるように上着を受け取り、肩に羽織りながらマリア・ロゼの前に跪いた。
「陛下……待ち望んでいた『答え』が、届きました」
その言葉に、女王の瞳に狂おしいほどの期待が宿る。
ついにあの修道士ハンスに鐵槌を打つ時が来たのだと
彼女はすぐさま侍女に時分の身支度を整えるように命じた。
謁見の間では居並ぶ廷臣たち。
膝をつき頭を下げ、女王を待つカシアスがいた。
やがて、重厚な扉が左右に開き、着飾ったマリア・ロゼが、真っ直ぐに玉座へと歩みを進めてきた。その後ろには、事の真相を知っているジュールが神妙な顔で影のように付き従っている。
女王は玉座に座るや否や、広間に響き渡る声で命じた。
「表を上げなさい!」
カシアスがゆっくりと顔を上げた。まさかそこにいるのが彼だとは思わなかった女王は面食らった。
「……カシアス? ……して、私への『答え』はどこにあるの? 教団は折れたのか? それとも、あの忌々しい修道士の首を持ってきたのか!?」
カシアスは薄く笑みを浮かべた。
「いいえ、陛下。私が連れてきたのは、そのような薄汚れたものではございません。……どうぞ、ご自身の目でお確かめください」
カシアスが合図を送ると、入り口の扉が再び、ゆっくりと開け放たれた。
逆光の中で、特徴的なオレンジ色の髪が鮮やかに燃える。
ヴィクトリアが、静かに、しかし確かな足取りで玉座へと近づいてきた。
『本編を読まなくても分かる『勇者』簡単物語』
カシアスと共に王宮へ帰還したヴィクトリア。死線を潜り抜けた「至宝」の帰還に、宰相ジュールは身なりも構わず奔走し、開戦間際の女王を謁見の間へと導く。ハンスへの復讐心に燃えるマリア・ロゼの前に現れたのは、誰あろうヴィクトリア本人。逆光にオレンジの髪を輝かせ、彼女は堂々と玉座へ歩み寄る。




