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第五十八話 眠れる城を叩き起こせ前編

サンマルコを出発して三日が経過しようとしていた。


日があるうちはアレクが一人で御者台を死守し、日が落ちればヴィクトリアとジャンが交代で、闇を切り裂くように馬車を走らせる。

車内では、カシアスが揺れる灯火の下で地図と睨めっこを続けていた。どの宿場で馬を入れ替え、どのルートを通るのが最短か。彼もまた、眠りを知らぬ軍師として戦い続けていた。


それぞれがやるべきことを精一杯務めていた。だが、その代償は心身の疲労となって、容赦なく彼らを蝕んでいく。


これほどの無理を通し、自分たちを、そして馬たちを使い潰して走ってきた。

もし、王都に着いた時にすべてが終わっていたら。

この三日間の、血を吐くような苦労がすべて水の泡になったら――。

それを言葉にする者は、誰もいなかった。

皆、同じ不安を胸の奥に抱えていたが、今の自分たちにそれを口にする余裕などなかった。一度でも弱音を口にすれば、張り詰めた糸が切れて二度と立ち上がれなくなることを、本能で悟っていたのだ。


沈みゆく三日目の夕日が、街道を血の色に染め上げていく。

今夜、最後の闇を抜ければ、そこには王都が待っているはずだ。

馬車は最後の中継地点へと滑り込み、最後の繋ぎ替えを終えると、再び漆黒の闇の中へと消えていった。


そして、四日目の朝。

深い霧に包まれた街道の先に、朝露に濡れて鈍く光る巨大な石造りの城壁が姿を現した。


王宮へと続く威厳ある大通りを、ボロボロになった馬車が異様な熱気を孕んで駆け抜けていく。


やがて、一行の前に立ちはだかったのは、王宮の正門だった。

宮廷へ至る最後の関門であり、ここを抜ければ即座に権力の核心へと踏み込むことになる。

馬車が宮殿の正面へと到達するや否や、門番たちが槍を交差させ、行く手を遮った。


「止まれ! 何用か! 宮殿の正門は……ッ!?」

槍を構えた門番の男が、馬車の横腹に刻まれた「ローザー公爵家」の紋章を認めた瞬間、その表情を驚愕が塗り潰した。


馬車の中でカシアスが、静かに窓のカーテンを引き上げた。

限界まで走り抜いてきた疲労は色濃いが、その瞳には王国の行方を左右する決意の炎が宿っている。

カシアスは門番を見据え、氷のように冷徹な声で言い放った。


「カシアス・ローザーだ。……開門せよ! !」

その名は、正門を警備する近衛兵たちに雷鳴のような衝撃を与えた。

公爵が、なぜ今ここに。しかも、死闘を潜り抜けたかのようなボロボロの姿で。


門番たちはカシアスの威圧と、背後に控える公爵家の影に圧倒され、槍を下ろすことも、反論することもできない。沈黙が支配する中、一人の兵が狼狽しながら門を開けるべく駆け出した。

重厚な鉄の門が、悲鳴のような音を立てて左右に分かれる。

馬車は止まることなく、王宮の敷地内へと滑り込んだ。整然と敷き詰められた石畳が、三日間泥にまみれて走ってきた車輪を冷たく迎え入れる。宮殿の窓の多くはまだ固く閉ざされ、カーテンの奥では主たちが微睡まどろみの中にいた。

やがて馬車は、宮殿正面の車寄せで静かにその動きを止めた。


カシアスは、手近な時計がまだ六時を回ったばかりであることを確認し、冷笑を浮かべた。


「宰相ジュールであれば、おそらく今はまだ寝室で着替えの最中だろう。……アレク、ヴィクトリア。降りるぞ。眠りこけているこの城を、叩き起こしてやる」


カシアスが扉に手をかけると、御者台からジャンが掠れた声で告げた。

「旦那様。……私はこのまま厩舎へ。馬たちが、もうこれ以上は持ちません」

ジャンの視線は、自分を信じて走り抜いてくれた馬たちの背に向けられていた。カシアスは短く、しかし深い信頼を込めて頷いた。


「ああ。馬を厩舎に入れたら、お前もゆっくり休め。よく頑張ってくれた、ありがとうジャン」


まさか労いの言葉をもらうとは思わなかったジャンは、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに安堵の色を浮かべて深く頭を下げた。


「……御意。武運を、旦那様」

その言葉を背に、ジャンは重い手綱を静かに引き、馬車を宮殿の裏手にある厩舎へとゆっくりと走らせていった。


正面玄関に残されたのは、カシアス、ヴィクトリア、そしてアレクの三人。

静まり返った王宮の石畳に、三人の足元から乾ききらぬ泥が落ちた。


誰も声を上げない。だが、近衛兵たちは無意識に道を空けていた。

カシアスは、公爵としての誇りをその背に纏い直し、宮殿の重厚な扉に手をかけた。


この三日間の強行軍が、今、王国の最高権力の中枢に突きつけられる。

「……行くぞ」

その一言と共に、カシアスは眠れる城を叩き起こすべく、扉を押し開いた。


カシアスの足音が、静まり返った廊下に硬く響く。

異変に気づいた宿直の近衛兵たちが数人駆け寄ってきたが、カシアスの顔を認めた瞬間、誰もがその「眼光」に射すくめられ、声をかけることすらできずに道を開けた。


一行が宰相の執務室へと続く重い扉を叩き開けた時、奥の私室から、ようやく騒ぎを聞きつけた宰相ジュールが姿を現した。

彼は寝巻きの上に急いでガウンを羽織っただけの、ひどくはしたない姿だった。


普段の冷静沈着な、鉄面皮のような面影はどこにもない。寝癖のついた髪を振り乱し、眼鏡もかけていなかった。


「カシアス……。いや、私は夢でも見ているのか……?」


ジュールは、目の前の男を呆然と見つめた。

カシアスが王都を発ってから、まだ十二日。サンマルコまでの往復を考えれば、最短でも十四日はかかるはずの行程だ。しかも、そこには「山の主」を見つけ説得し、下山させるという難題が含まれていたはず。


それが、三日も早く、しかも戦場から戻ったかのような凄絶な姿で目の前に立っている。


「……バカな。空でも飛んで来たというのか!?」

ジュールの叫びは、まだ眠りの中にあった王宮全体を叩き起こすかのように響き渡った。


カシアスは、ジュールの目の前で足を止め、薄く笑った。

その笑みは、限界を超えて走り抜いてきた者だけが持つ、鋭く、危険な光を帯びている。


「空は飛べなかったが、死神を追い越すくらいの速さでは来たつもりだ。……ジュール、どうやら間に合ったようだな」


カシアスの言葉に、ジュールはようやく我に返り、その視線を背後に控える二人にようやく気づいた。

『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』


サンマルコから3日、心身を削る強行軍の末にカシアス達は王都へ帰還した。泥にまみれ、ボロボロの姿で王宮の門を突破した一行は、未だ眠りの中にある城を叩き起こす。予定より早い到着に驚愕する宰相ジュールを前に、カシアスは鋭い笑みを浮かべた。王国の命運を賭けた戦いが、今ここから始まる。

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