第五十七話 強行突破突破(デッドヒート)の結束
差し込む朝日の眩しさに、アレクはゆっくりと瞼を持ち上げた。
馬車の揺れは依然として激しく、御者台からは、夜明け前の凍てつく闇を走り抜いてきたジャンの、馬を制御する低く鋭い声が響いている。
ふと隣を見ると、そこにはまたヴィクトリアがいた。
数時間前、交代のために車内へ戻ってきた彼女は、座席に深く身を沈めたまま、アレクの肩に頭を預けて眠りに落ちていた。
アレクは、昨夜の自分の不甲斐なさを噛みしめるように拳を握った。
自分はたいした戦力にさえなっていない。
グレイ伯爵の厩で働いていた日々。最古参のロペス爺さんから馬の世話を叩き込まれ、御者のモリスからは剣を教わった。
あの時、モリスは確かに言っていた。
「アレク、剣もいいが、御者の技も覚えておけ。いつかお前の大切な誰かを運ぶ時が来るかもしれないからな」
だが、当時のアレクは剣の稽古に夢中で、モリスの鮮やかな手綱さばきを「凄いな」と眺めるだけで終わらせていた。
もし、あの時。剣だけでなく、モリスから一流の御者技術を盗んでいれば。
だが、後悔したところで、なんの解決にもならない。
学べる時に学ばなかったツケは今、自分の無力さとして突きつけられている。ならば、今この瞬間から、自分にできる最大限をやるしかない。
アレクが小さく息をつくと、その微かな動きに反応したのか、ヴィクトリアがゆっくりと、惑うように目を開けた。
「ヴィック」
「……ん?」
ヴィクトリアは、自分がまだアレクの肩を枕にしていたことに気づくと、弾かれたように身を起こした。一瞬、いつものように気まずさを誤魔化そうと顔を背けた彼女だったが、アレクの眼差しが、今までとは違う異様なまでの静謐さを湛えていることに気づき、動きを止めた。
「今日一日……いや、明日もだ。日没までの御者は、全部俺がやる」
ヴィクトリアの眠気が一気に吹き飛び、鋭い眼光が戻った。
「冗談じゃないぞ! アレク!!」
その怒号に、向かいの座席で微睡んでいたカシアスも、驚いたように目を覚ました。
「冗談で言ってない」
「だったら正気の沙汰じゃない!」
ヴィクトリアは身を乗り出し、アレクの言葉を力尽くで捻じ伏せるように睨みつけた。
人も馬も最大四時間が限度だ。
それを遥かに超える時間を一人でやると言っているのだ。そんな無茶を、流石にヴィクトリアも認めるわけにはいかなかった。
だが、アレクは引かなかった。
「夜のほうが大変だ。だが俺は、夜は戦力外だ。だったら日があるうちは俺がやるべきだと思う……いや、やらなければならない」
アレクの目には一切の迷いがなかった。
「……アレク、君」
ようやく状況を飲み込めたカシアスが、険しい顔の二人の間に割って入るように声を上げた。
「君はさっき、自分のことを戦力外だと言ったね……。だったら全く御者をやれない私は、戦力外どころの騒ぎではないが」
カシアスの言葉に、詰め寄っていたヴィクトリアの肩の力が一瞬だけ抜けた。カシアスは苦笑を浮かべ、アレクを落ち着かせるように見つめる。
「君は十分すぎるほど戦力だよ、アレク。ヴィクトリア嬢のあの熱烈な指導に耐え、初日にして四頭立ての怪物共を制御してみせた。そんなことができる人間が、この国にどれほどいると思う?」
カシアスはそこで一度言葉を切り、今度はヴィクトリアの方を向いた。
「ヴィクトリア嬢、アレクの提案を受け入れようではないか。もちろん、無理はさせないという条件付きで、だ。……夜の闇を走るのがどれほどの心労か、隣にいたアレクが一番よくわかっているからこその、彼なりの考えなのだと思う」
ヴィクトリアは忌々しげに顔を背けたが、アレクの揺るぎない眼差しとカシアスの言葉に、最後は諦めたように長く息を吐き出した。
「……好きにしろ。ただし、一瞬でも手綱が乱れたら即座に交代だ。いいな!」
「ああ、約束するよ!」
アレクの顔に、ようやく力強い笑みが戻った。
馬車が九度目の中継地点となる宿場へと滑り込む。
完全に停止するより早く、アレクは車内の扉を開け放った。外の空気は刺すように冷たかったが、今の彼の胸に宿る熱を冷ますには至らない。
御者台から降りてきたジャンは、まつ毛に霜を付かせたまま、幽鬼のようにふらついていた。その限界を超えた姿を、車内から降り立ったカシアスが真っ先に受け止める。
「ジャン、よくやった。……あとはアレクが日没まで引き受けてくれる」
「旦那様……。ですが、これから日没までとなると、それはあまりに……」
ジャンが掠れた声で懸念を口にするが、カシアスは静かに首を振った。
「彼の思いを汲んだ。ヴィクトリア嬢とジャン、お前たちは夜の担当だ。だから日があるうちは、できるだけ中で休息をしろ。これは命令だ」
主人のその言葉に、ジャンは深く、震える呼吸を整えた。
そして、自分と入れ替わりで高い御者台へと足をかけたアレクを見上げると、何も言わず、ただ深く、敬意を込めた一礼を送った。
アレクが手綱を握り締めると、昨日感じたあの「怪物」のような重圧が、今は確かな手応えとして伝わってくる。
「無理をするなよ、馬鹿」
後方の車内から、ヴィクトリアの小さく、しかし聞き慣れた毒づきが聞こえた気がした。アレクは前を見据えたまま、口元をわずかに綻ばせる。
「……行くぞ、お前たち! 飛ばせ!!」
アレクの鋭い合図と共に、馬車が弾かれたように走り出した。
モリスが、ロペス爺さんが、そしてヴィクトリアが教えてくれた全てが、今、アレクの指先を通じて馬たちに伝わっていく。
馬車は朝の光の中を、王都を目指して猛然と突き進んでいった。
『本編読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
王都への強行軍が続く中、アレクは己の無力さを痛感し、夜道に長けるジャンやヴィクトリアを休ませるため、日没までの御者を一人で引き受けると宣言する。無茶な提案に反対する一同だが、カシアスの仲裁とアレクの固い決意に折れ、後を託した。アレクは王都を目指し馬車を激走させる。




