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第五十六話 強行突破(デッドヒート)の休息

新しく繋がれた四頭の荒馬たちが、鼻息を荒くして暴れている。アレクが手綱を握った瞬間、そのあまりの重さと馬の力強さに、肩が脱臼するかのような衝撃が走った。


「うわっ……重い! 荷馬車とは全然違う……!」

「当たり前だ。これは『速く走るためだけ』に改良された怪物どもだ。力で抑えようとするな、指先の感覚で意思を伝えろ」


隣に座るヴィクトリアの鋭い視線がアレクを射抜く。アレクが必死の思いで手綱を振ると、馬たちが大地を抉るような咆哮を上げ、馬車が弾かれたように飛び出した。

直後、隣からヴィクトリアの指導が、鞭よりも鋭く飛ぶ。


「遅い! 右から二番目の馬が遊んでいるぞ! 鞭で気合を入れろ! 肘を引け!」

「わ、わかってるよ! 全力でやってるんだ!」


ヴィクトリアの罵声にも似た指導を浴びながら、アレクは必死に巨大な質量を御し続けた。腕の筋肉は引きちぎれるように悲鳴を上げ、全身が馬車の振動でバラバラになりそうだったが、彼女の眼光が、一切の妥協もわずかな恐怖心も許さない。


数時間が経過し、空が血のような茜色に染まり始めた頃。影が長く伸び、夜という名の怪物が這い出してくる時間帯に、馬車は三度目の中継地点となる宿場へ、滑り込むように停止した。

馬を解き、繋ぎ替えるわずかな停滞。御者台から降りたアレクは、地面に足がついた瞬間に膝が笑い、危うく崩れ落ちそうになった。


「交代だ。ジャン、お前はさっき休んだな」

カシアスが車内から顔を出し、疲労困憊のジャンを促そうとした。だが、ヴィクトリアはそれを制した。


「いや……次は私がやる」

ヴィクトリアが、淡々と告げた。その場にいた全員の動きが止まった。まず声を上げたのはアレクだ。


「正気か!? ヴィック……」

さらに、ジャンが青ざめた顔でヴィクトリアの前に立ちふさがった。


「お嬢さん、正気じゃありません! これから日が沈みます。視界がなくなる時間帯に、お嬢さんが御者を務めるなんて……無謀すぎます!」


「そうだ、ヴィクトリア嬢。ここはジャンに任せるべきだ」


カシアスも語気を強めて制止する。だが、ヴィクトリアは彼らの心配を、冷たい風で吹き飛ばすように鼻で笑った。


「視界が悪いからこそ、一人では無理だと言っている。……三時間だ。三時間きっちり経ったら、ジャン、お前に代わってもらう。夜は私とお前で回す。それでいいな!」


彼女は宿屋の主人が持ってきた松明の火を、自ら馬車のランタンに灯した。赤黒い炎が、男装のヴィクトリアを不気味に、そして神々しいまでに照らし出した。


「……お前は中に入れ。隣に座られると気が散る」

御者台に飛び乗ったアレクに対し、手綱を握るヴィクトリアは顔も見ずにそう言い放った。


「えっ、でもヴィック……! これから日は完全に落ちるんだぞ、一人じゃ……」


「二度言わせるな。暗闇の中を走らせるんだ。一人で集中したい……お前は中にいろ」


「……わかった」

アレクは短く答えると、悔しさを噛みしめながら御者台を下りた。


一人で闇を引き受けようとする彼女の背中が、ランタンの光に

縁取られて、ひどく小さく、そして強固に見えた。

有無を言わせぬ拒絶。だが、アレクはその突き放すような言葉の裏側にある、彼女の不器用な気遣いを痛いほど感じ取っていた。これまでも彼女はそうだった。過酷な局面になればなるほど、周囲を安全な場所へ追いやるために、自分が無理をするのだ。


馬車が弾き出されるように宿場を発つ。

車内には、上座の座席に深く身を沈め、地図を睨んでいるカシアスと、疲労で泥のように眠りかけているジャンの姿があった。


アレクは逃げ場のない振動に耐えながら、下座の隅に小さくなって座った。

外からは、闇を切り裂くヴィクトリアの鋭い咆哮と、荒ぶる馬たちの蹄の音が絶え間なく響いてくる。


雪山下山でヴィクトリアは相当体力を消耗したはずだ。それなのに限界を超えてなお自分を酷使する彼女を想像するだけで、胃の奥がせり上がるような不安に襲われる。彼女が握っているのは手綱ではなく、自分自身の命の糸ではないか。そんな疑念が、アレクを生きた心地にさせなかった。


「……アレク」

突然名前を呼ばれ、アレクの肩が跳ねた。


向かいに座るカシアスが、先ほどの宿で主人が用意した包みをアレクに向けて無造作に放り投げた。

アレクは慌ててそれを受け止める。中にはまだ少し温かみの残る黒パンと、塩辛そうな干し肉が入っていた。


「それを食べて、少しでも寝ろ。この先、再びお前の力が必要になる時が来る」

「俺を休ませるためにあんな言い方をしたんだ。……それなのに、彼女だけを暗闇の中で戦わせるなんて」


アレクが絞り出すように言うと、カシアスの瞳に冷徹な光が宿った。


「ヴィクトリア嬢の気持ちがそれほど分かっているのなら、なおさら言われた通りにしろ。彼女は今、自分の身を削ってお前の『休息時間』を稼いでいるのだ。それを無駄にすることは、彼女の献身を侮辱することと同じだ」


カシアスの言葉は、アレクの甘えを断ち切るように鋭かった。


「食え。そして目を閉じろ。これは命令ではない。彼女と共に王都へ辿り着くための、最低限の義務だ」


アレクは震える手で黒パンを口に運んだ。喉を通りにくいほど硬いパンを、カシアスの言葉と、ヴィクトリアの覚悟と一緒に飲み込む。

アレクは、味のしない黒パンを無理やり胃に流し込むと、言いつけ通りに固く瞼を閉じた。


馬車の凄まじい振動と、外から絶え間なく響くヴィクトリアの鋭い声が、彼の意識を何度も現実に引き戻そうとする。だが、カシアスの「義務だ」という冷徹な言葉が、アレクを深い眠りの底へと押しやった。彼女が命を削って作った三時間を、一秒たりとも無駄にしてはならない。

いつの間にか、意識は暗転していた。


……どのくらい時間が経ったのだろうか。

ふと、アレクの意識が微かな「静寂」によって浮上した。

いや、完全に音が消えたわけではない。外からは依然として、闇を叩く蹄の音が聞こえている。だが、耳を劈くようだったあの烈火のごとき咆哮が止んでいる。


「(……交代したのか?)」

まだ重い瞼をゆっくりと開ける。

車内のランタンは低く絞られ、向かいの上座ではカシアスが腕を組み、彫像のように静かに目を閉じていた。


アレクが寝ている間に、馬車は三度目の中継地点を過ぎていた。御者台には交代したジャンが座り、馬たちも新たな四頭へと繋ぎ替えられたはずだ。それを一切悟らせず、自分を眠らせ続けてくれた周囲の配慮に、アレクは言いようのない負い目を感じた。


その時、右肩にずっしりとした、だが柔らかな重みを感じて、アレクは息を止めた。

隣を見ると、そこにはヴィクトリアがいた。

男装の外套を纏ったまま、彼女はアレクの肩に深く頭を預け、泥のように眠っていた。


闇を切り裂いていたあの狂気じみた気迫は影を潜め、薄暗い灯りの中で見る彼女の横顔は、驚くほど白く、そして痛々しいほどに疲れ切っている。


アレクに「気が散る」と言い放ったあの強気な唇は、今はわずかに開かれ、無防備な少女のそれに戻っていた。


アレクは、自分が動けば彼女を起こしてしまうのではないかと、指先一つ動かすことができなかった。

右肩に感じる彼女の体温が、熱いほどに伝わってくる。人の目がある場所で、彼女がこうして誰かにもたれかかって眠るなど、普段の彼女を知る者からすれば信じられない光景だ。


アレクは、そっと自分の肩をわずかに下げ、彼女がより深く寄りかかれるように調整した。

新しくなった馬たちの、力強いが安定した足取りが、今は心地よい揺り籠のように感じられる。


「(お疲れ様、ヴィック……)」

アレクは心の中でそう呟き、彼女を揺らさないよう、暗闇の中で一点を見つめ続けた。


彼女の髪から漂う、わずかな汗と薬草の匂いが、アレクの胸を締め付けた。

『本編読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』


王都への強行軍が続く中、アレクは四頭立ての荒馬を御す過酷さに直面する。ヴィクトリアは疲弊した彼らを休ませるため、日没の危険を承知で自ら御者台に立ち、孤高に闇を切り裂く。彼女が命を削って稼いだ休息を経て、アレクが目を覚ますと、そこには彼の肩に寄り添い、無防備に眠る彼女の姿があった。

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