第五十五話 強行突破(デッドヒート)の咆哮
サンマルコを発って4時間。
街道沿いの風景が飛ぶように後ろへ流れていく中、特注の馬車は最初の中継地点となる宿場へと滑り込んだ。
御者台のジャンが渾身の力で手綱を引き絞る。
車輪の鉄輪が石床と擦れて耳を劈く悲鳴を上げ、猛烈な砂煙が辺り一面を白く染めた。車内が激しく揺れ、座席にしがみついていなければ放り出されそうな衝撃が一同を襲う。完全に停止する前から、馬たちは全身から白い泡を吹き散らし、焼けた鉄のような熱を帯びた呼気を激しく吐き出していた。
馬車が完全に止まるより早く、ヴィクトリアが扉を蹴り開けて飛び出した男装のその姿から放たれる威圧感は、周囲の空気を一瞬にして凍りつかせた。
「主人! 馬を替えろ。今すぐだ!」
主人が困惑し、言い淀んだ瞬間だった。
ヴィクトリアのあとから降りてきた、カシアスが、何も言わずに一通の書状を主人の鼻先に突きつけた。
そこには、見る者が平伏さざるを得ない宰相ジュールの鮮やかな印章が押されている。
主人の顔が、一瞬で土気色に変わった。その動揺を塗り潰すように、カシアスはさらにずっしりと重い革袋を、主人の胸元へ無造作に放り投げた
「馬は最も足の速い四頭だ! それと、車内で取れる簡易的な食事と水を人数分用意しろ。急げ。……文句があるなら東のローゼリアン王国の宰相府へ言え。もっとも、その前にこの馬車と同じ速度で憲兵が飛んでくることになるだろうがな」
カシアスの冷徹、かつ有無を言わせぬ宣告に、主人は腰を抜かしそうになりながらも、本能的に悟った。この者たちに逆らってはいけないと。
「ご、五分……! 五分で、王宮用の最高の一座を用意させますだ!」
主人は脱兎のごとく、厩舎の奥へと走り去った。
クレミス村を飛び出してきたヴィクトリアには、今やこうした強引な交渉に必要な蓄えを持ってきていなかった。
だが、彼女が「商人の眼」で最適解を出し、カシアスが宰相の通行証と公爵家の財力という最強の暴力で、国家のインフラを強引にこじ開ける。その奇妙な連携こそが、この絶望的な強行軍を辛うじて成立させていた。
その間に、ジャンが御者台から転げ落ちるようにして降りてきた。数時間の全力疾走。数トンの質量を極限の速度で御し続けたジャンの腕は、自分の意志を離れたかのように痙攣し、青白く震えていた。
「……ジャン、よくやった。中で休め。次は私で、その次がアレクだ」
ヴィクトリアの短い指示に、ジャンは痙攣する腕を抑えながら無言で頷き、車内へと消えた。
入れ替わるように、主人が必死の形相で四頭の替え馬を連れてくる。ヴィクトリアは主人が持ってきた水瓶をひったくって一気に飲み干すと、そのまま鋭い眼光を新しく繋がれた馬たちに向けた。
彼女は馬の脚の運びや、鼻孔の開き、そして毛艶を舐めるように一瞥する。
「……主人。これより良い馬はいないのか?」
「えっ、あ、はい! うちで今出せる最高に足の速い連中ですだ!」
「ふん……。骨格は悪くないが、後ろ脚の筋肉の張りが甘い。一頭、右の前脚にわずかな熱があるな。……おそらく持っても二時間。次の宿場までもつかどうかだ」
ヴィクトリアの冷徹な査定に、主人は顔を引かせた。
パッと見ただけで馬の微細な体調不良を見抜くその眼力は、並外れていた。
「カシアス、二時間だ! 次の宿場までの距離を計算しておいてくれ。二時間で使い潰すつもりで走らせる。アレク、お前は御者台の私の隣に座れ」
「えっ、俺もか?」
「次に備えて、私の手綱さばきをその目に焼き付けておけ」
二人が高い御者台へと駆け上がる。
ヴィクトリアが手綱を握った瞬間、その殺気立った気配を察したのか、不揃いだった馬たちの呼吸がピタリと重なった。
「見ていろ、アレク。力で抑えるんじゃない。馬の『意志』を奪って、自分の手足にするんだ。……行くぞ!」
ヴィクトリアが手綱を鋭く振るった。
馬たちが大地を抉るような咆哮を上げ、馬車が弾かれたように飛び出した。ジャンの時とは明らかに違う、暴力的なまでの加速。
「速い……! ジャンさんの時よりずっと……!」
アレクは座席から放り出されそうになり、必死に手すりにしがみついた。
――そして、きっかり二時間が経過した頃。
前方に見えてきた二度目の中継地点を前に、馬たちの速度が目に見えて落ち始めた。一頭が激しく首を振り、ヴィクトリアの予測通り、右前脚をかばうような不自然な足取りを見せる。
「……やはりここまでか。よく持った方だ」
ヴィクトリアが手綱を捌き、滑り込むように宿場へ馬車を止めた。停止した瞬間、馬たちは力なく膝をつき、全身から凄まじい湯気を立ち昇らせた。まさに「限界」のその瞬間までヴィクトリアが馬を使い切った証だった。
新しく連れてこられた馬たちを、ヴィクトリアは再び瞬時に見定めた。
「……今度はマシだな。だが四頭のうち一頭、気性が荒いのが混じっている。アレク、左端の馬に気を配れ。そいつが全体を乱そうとする」
アレクは生唾を飲み込み、覚悟を決めて御者台へと手をかけた。自分一人でこの「怪物」たちを御さねばならない。その重圧に震える手で座席に腰を下ろそうとした時、隣に影が落ちた。
「……ヴィック? 中で休まないのか……」
「言っただろう。熱烈指導だと。お前一人に任せて、馬車ごとひっくり返されてはたまらないからな」
ヴィクトリアはアレクの隣にどっかりと座った。
「出せ、アレク! 太陽が沈む前に、少しでも距離を稼ぐぞ!」
アレクが震える手で手綱を握った。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
サンマルコを発った一行は、ヴィクトリアの馬の良し悪しを見抜く目とカシアスの権力を武器に、限界突破の強行軍を続ける。宿場ごとに馬を使い潰す過酷な旅路の中、疲弊したジャンに代わりヴィクトリアが御者台へ。次は自分の番だと気圧されるアレクに対し、彼女は隣で苛烈な操縦指導を開始する。




