第五十四話 強行突破(デッドヒート)の幕開け
車内に流れる空気は、もはや重苦しい沈黙を通り越し、焼けるような焦燥感に満ちていた。
「クソっ……!」
カシアスが、誰に聞かせるともなく、吐き出すように毒づいた。その端正な顔は苦渋に歪み、膝の上の拳は白くなるほど握りしめられている。
「……馬車に羽根でも生えていれば別だが。どんなに焦ろうと、王都までは一週間はかかる」
かつて、彼の父であるローザー公が、周囲に担ぎ上げられる形でマリア・ロゼと王位を争ったあの日。カシアスも、そしてその戦火に巻き込まれたヴィクトリアも、内戦がどれほど容易く、そして無残に国を切り刻むかを知っている。
また、あの地獄が繰り返されるのか。カシアスの独り言は、抗いようのない絶望への恐怖だった。
だが、正面に座る女は、その絶望を真っ向から踏みにじった。
「何を言っている、カシアス。三日だ」
カシアスが顔を上げると、ヴィクトリアが冷徹な、それでいて確信に満ちた目で自分を見据えていた。
「ヴィクトリア嬢、それは……物理的に不可能です。馬も人も、そんな無茶には耐えられない」
「アレクと私、そしてお前が連れてきた御者の三人で回せば可能だ。交代で馬車内で睡眠を取り、食事も車中で済ませる。馬を変える数分で生理現象を片付けろ」
ヴィクトリアは事務報告でもするかのように淡々と言い放った。
自分も「御者」として戦力に数えられていることを知ったアレクが、狼狽えて身を乗り出した。
「ヴィ、ヴィック! 俺は荷馬車なら扱ったことはあるけど……こんな旅客馬車を扱ったことはないんだぞ!?」
「ん? そうなのか」
ヴィクトリアは、そこで初めて気づいたというように小首を傾げた。
「……いや、だが荷馬車を扱えるなら馬車も同じだ。大丈夫だ、すぐに慣れる」
ヴィクトリアは、いたずらっぽく、そして残酷なほど完璧な笑みをアレクに向けた。
だが、その笑顔に懐柔されるわけにはいかなかった。アレクは必死に食い下がる。
「慣れるとか、そういう問題じゃない! それにヴィック……右肩が。又無理をして炎症を起こしたらどうするんだ」
狙撃され、雪山で又一時炎症を起こした彼女の肩。それを心配するアレクの言葉に、ヴィクトリアは自分の右肩を軽く回してみせた。
「私の肩なら心配するな。マイラ叔母さんの煎じた薬がだいぶ効いている。……それより、アレク」
ヴィクトリアは、ふっと表情を和らげた。
「やっぱり……無理か?」
覗き込むようなその瞳に、アレクは息を呑んだ。
それは「できないなら仕方ない」という優しさではなく、「お前ならやってくれると信じている」という、逃げ場を塞ぐ絶対的な信頼の光だった。
「わかった……やるよ!」
と、半分自棄になりながらアレクは言った。
「期待してるぞ、アレク」
「ヴィクトリア嬢……それならば、私も御者として志願しましょう。私一人だけ何もしないと言うわけにはいかない」
「いや、カシアス。お前はいい。……お前は馬にしか乗ったことがないだろう? 貴族の乗馬と、数トンの鉄と木を操る御者の技術は別物だ。お前に手綱を任せて、馬車ごと心中するのは御免だ」
公爵家当主として馬術には相当の自信がある。だが、それは御者の技ではない。
「それはあんまりではないですか?彼は御者として自信がないと言ってるのに…彼には期待して、私にはそれですか?」
「そんなの…当たり前だ!私はアレクを信頼してるからな」
そこまで言われてしまっては、カシアスに反論の余地はなかった。
「…ところでヴィック、疑問に思ったんだが…宿場ごとに馬を代えるって言ってるけど、馬ってそんなに簡単に買えるものなのか?」
「私は買うとは言ってないぞ。王宮急使の継ぎ馬を使う」
「王宮急使の継ぎ馬?」
アレクが聞き返した。
「簡単にいえば馬を借りる。本来は国家の緊急事態に、王宮の急使だけが使える最速の乗り継ぎ網のことだ。各宿場には、常に元気な替え馬がキープされている。本来なら勝手には使えないがな」
と言ってヴィクトリアは真正面に座るカシアスの顔を笑いながら見た。
カシアスがヴィクトリアの言葉を補足するように続ける
「……ジュールから預かった、宰相直筆の極秘通行証がある。これがあれば、公設宿駅の『王室専用馬』を公務として徴用できる。金なら心配するな。不足分は私が、管理人の横面を金貨の袋で叩いて黙らせてやる」
カシアスは座席から身を乗り出し、すぐ背後にある御者台へと通じる小窓を勢いよく開け放った。途端、激しい風の音と、石畳を叩く蹄の轟音が車内に流れ込んでくる。
「ジャン! 聞いたな。ここから三日で王都へ入る。死ぬ気で飛ばせ!」
その絶叫に近い命令に、御者台のジャンは背中で驚愕を表現した。前方の路面から目を逸らすわけにはいかない彼は、必死に手綱を握り直しながら声を張り上げる。
「旦那様! いくらなんでも無理です! それは……人も馬も、この速度では到底持ちません!」
背後から飛んでくる悲鳴のような抗議を、上座に座るヴィクトリアが冷徹に断ち切った。
「無理なのはわかっている。だが、どうしても我々は一刻も早く王都へ戻らねばならない。……馬は宿駅ごとに最高のものと取り替える。御者はジャン、アレク、そして私だ。これはもう決定事項だ。異論は認めない」
ヴィクトリアの有無を言わせぬ宣告に、カシアスも覚悟を決めたように頷き、小窓の向こうへ言葉を継いだ。
「そういうわけだ、ジャン。雪山を馬車で登れと言っているわけではない。平坦な街道を、交代で走り抜けるだけだ。……お前の腕なら、決して不可能ではないはずだ」
小窓の向こうで、ジャンが歯を食い食いしばる気配が伝わってきた。
そこでカシアスは、先ほどヴィクトリアがアレクに向けたのと同じ、真剣かつ慈愛に満ちたトーンで付け加えた。
「ジャン。……私はお前を信頼しているからな」
一瞬の沈黙。
直後、小窓の向こうでジャンが裏返った声で絶叫した。
「やめてください! 旦那様、なんか凄まじい誤解を招くような……変な意味に聞こえる言葉は吐かないでください! 今、そんな場合じゃありませんよ!」
「……えっ」
純粋な激励のつもりだったカシアスが、きょとんと絶句する。
ヴィクトリアとアレクの間に流れた美しい絆を再現したかっただけなのだが、ジャンには、その言葉が別の意味を帯びて、しかも最悪の状況で発せられたものにしか聞こえなかったらしい。
主人の妙な空回りした信頼と、ヴィクトリアの冷徹な狂気。
その二つに挟まれたベテランの御者は、やがて諦めたように、あるいは何かが吹っ切れたように、馬たちへ鋭い合図を送った。
「……わかりましたよ! 壊れても知りませんからね! 行くぞっ!!」
鞭が空を裂いた。
特注馬車が悲鳴を上げながら、猛然と加速する。
その凄まじい揺れの中で、ヴィクトリアは静かに目を閉じた。
三日。
王都に辿り着けるなら、壊れるものがあっても構わない。たとえそれが、馬車であっても、自分自身であっても。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
内戦の再来を阻止すべく、ヴィクトリアは王都への「三日間強行突破」を宣言する。通常一週間かかる道のりを、アレクや御者を巻き込み不眠不休で駆け抜ける狂気の強行軍。カシアスの空回りな激励を背に、王宮急使の継ぎ馬を徴用して馬車は猛加速する。己を壊してでも間に合わせる。死闘の幕が開いた。




