第五十三話 戦火の火種
サンマルコを出発した馬車の車内には、車輪が石畳を叩く音だけが空虚に響いていた。
上座に腰掛けたヴィクトリアは、腕と足を組んでいた。
その向かい側――公爵という高貴な身分にありながら、あえて下座に身を置いているのがカシアスだ。
彼は隣に座るアレクに触れんばかりの距離にいながら、その所作一つひとつに貴族としての洗練された優雅さを失っていない。
「……おい、カシアス」
「なんでしょうか、ヴィクトリア嬢」
カシアスは淡々と応じた。
「一つ聞かせろ。お前、なぜ私がクレミス村にいると思った」
「それはですね。犯人が捕まっていない状態で、また狙撃される可能性がある現状なら、一番隠れるのに適したのはあの村だと思ったからです。貴方のお父上のヴォルフ殿があの村の出身だと、私は知っていましたから……」
ヴィクトリアは鼻で笑い、射抜くような視線をカシアスに向けた。
「ふん。なるほどな……そこまで分かっているのなら、なぜマリア・ロゼ様を止めなかった。お前たちは北と戦争になることを恐れているようだが、問題はそれではない。一番肝心なことを見落としている」
ヴィクトリアの言葉に、カシアスの眉が僅かに動いた。
宰相ジュールや自分が見落としをしていると指摘されたのだ。
だが、彼女の口から出た「見落とし」の内容に、彼は皆目見当がつかなかった。
「……貴女の仰っている意味がわかりません。北の王国とソルチャーチ教団は不可分の関係。教団が討たれれば、国家の威信にかけて北は動かざるを得ないはずだ」
「残念ながら、北とは戦争にはならない。……いや、もしなったとしても、一瞬で一方的に蹂躙されて終わるだけだ」
ヴィクトリアは断言した。
「北の王国には、今や戦争を維持できるだけの余力も財力もない。だから、もしソルチャーチ教団本部がマリア・ロゼ様に砲弾を撃ち込まれたとしても、王国は知らん顔を決め込むだろう。……
むしろ、彼らにとって教団は、今まで国家運営の邪魔をしてきた『目の上のたんこぶ』に過ぎない。
教団の権力を少しでも剥ぎ取りたい彼らにとって――マリア・ロゼ様は面倒事を引き受けてくれる女神様に見えることだろうよ」
その断言は、彼がこれまで必死に組み立ててきた「国際紛争の回避」という大義名分を根本から無意味にした。カシアスは指先を震わせ、吐き出すように言った。
「……それでは、マリア・ロゼ様を止めるために貴女を連れ戻す必要はなかったというわけですね。戦争が起きないというのであれば、我々が動く理由そのものがない」
「いや……」
ヴィクトリアは、不敵に口角を上げた。その眼光は、隣で小さくなっているアレクを通り越し、カシアスの本質を射抜く。
「北がどうのこうのと言うより……カシアス、君はソルチャーチ教団の信徒だよな?」
突然、一信徒としての立場を問われ、カシアスは虚を突かれたように目を見開いた。
「あ……ええ、そうですね。大陸中の王侯貴族は、私を含めほとんどが信徒ですが……それが何か?」
「ここまで言っても頭が回らないとはな。いいか、矮小な外交の話をしてるんじゃない。大陸中の人間が信仰している教団の本部が、一介の商人の私怨で砲撃されるんだ。それを見た信徒たちはどう思う、という話だ」
「…………」
「たとえ王家が黙っていても、教団を生活のすべてとしている数百万の信徒たちはどう動く? 自分の聖地を焼かれた連中の怒りは、どこへ向かうと思う」
カシアスは短く息を呑んだ。
国家の理屈ではない。群れの怒りだ。
「その前に、我が東の王国で離反が起こらなければよいがな」
ヴィクトリアは、馬車の窓から流れる景色を眺めながら、独り言のように呟いた。
「えっ!」
その呟きを、カシアスが聞き逃すはずがなかった。
「我が王国内でも国民のほとんどがソルチャーチの信徒だ。……まあ、一部熱心に改宗された方々がいるがな」
そこで彼女は苦笑した。
ソルチャーチ教団からエレナス教団に改宗された方々。それは、マリア・ロゼ様と社交界を牛耳る三婦人、そしてその夫君たちのことだ。
「今回のソルチャーチ教団への報復を知った東の人間が何をするか。そっちのほうが、まず怖いな」
カシアスは、全身から血の気が引いていくのを感じた。
否定したかった。だが、あり得ることだ。
大陸中が敵に回ることよりも真っ先に、自分たちの国の人間が敵に回る可能性に、なぜ気づかなかったのか。
カシアスは、依然として外を眺めているヴィクトリアから目を離せなかった。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
サンマルコを出発した馬車内で、ヴィクトリアはカシアスの「国際紛争」という懸念を一笑に付す。彼女は、北の王国の国力低下を見抜き、真の脅威は外交問題ではなく、聖地を焼かれた大陸中の信徒による暴動と東の王国内での離反であると断言。国家の理屈を超えた「信仰の怒り」を突きつけ、カシアスを戦慄させる。




