第五十二話 美しき強者
早朝の商業ギルド本部は、すでに熱を帯びた喧騒の中にあった。
夜明けとともにサンマルコの門をくぐった隊商の荷卸し許可を求める親方たちや、一刻を争う為替の決済を求める商人たちが、巨大な大理石のカウンターへと殺到している。
「次だ! 荷物の明細は揃っているのか!?」
「為替の検印なら三番の窓口へ行け!」
受付総代が怒鳴り声を上げ、膨大な帳簿と格闘している中、その喧騒を真っ二つに割るようにして、ヴィクトリアが突き進んだ。
受付総代は彼女の姿を認めるなり、さきほどまで猛然と走らせていたペンを置き、弾かれたように椅子から立ち上がった。
「ル……ルベライト様」
「バミルトン本部長は中にいるか?」
「あ……はい! 奥の執務室で書類作成をしておられます!」
「そうか。……ありがとう」
ヴィクトリアは、長蛇の列を作る商人たちには目もくれず、受付を素通りして重厚な内扉へと手をかけた。
ギルドの受付総代も、通路を固める警備官も、誰もそれを咎めない。それどころか、彼女が通り過ぎる刹那、職員たちは一様に作業の手を止め、深々と頭を下げていた。
「おい……誰だ、あいつは。なぜ並ばずに中へ入れるんだ?」
事情を知らぬ若手の商人が、不満げに隣の男の袖を引く。
「お前……知らないのか。総代が『ルベライト様』と呼んでいただろう。あのルベライト商会の……」
「だからって、なぜ一介の商人が何の許可もなく本部の中枢まで――」
「馬鹿! 口を慎め。あの名前を聞き、立ち居振る舞いを見ても分からないのか?!……本議会メンバー、ヴィクトリア嬢だ」
『本議会メンバー』。
ヴィクトリアの後ろをついて歩くアレクはその会話を小耳に挟んだが、商人ではない彼には、その言葉が持つ正確な重みまでは分からなかった。
だが、誰もが彼女に敬意を払い、道を開ける。それは単なる富豪への追従ではなく、この巨大なギルドという組織そのものを支配する「権威」に対する、本能的な服従に見えた。
最奥にある本部長室。扉が開くと、机で書類の山に埋もれていたバミルトンが顔を上げた。
「ヴィ、ヴィクトリア様……!」
「おはよう。朝から大変な仕事の量だな」
「ヴィクトリア様、本当に……本当にご無事で……! ラナハイムで凶弾に倒れたと聞いてから、私は……」
「心配をかけたな。さて、うちの糞オヤジとマリア・ロゼ様がここを襲撃したんじゃないか? もしそうなら私から詫びる。済まなかったな、バミルトン本部長」
ヴィクトリアの言葉に、バミルトンは肩をすくめて苦笑した。
「いえ……それは。確かに少々、肝を冷やしましたが。お父上のヴォルフ親方が少し手荒な真似をされましてね。執務机に立派なヒビが入りましたので、ルベライト商会の方に修理の請求書を回しておきましたよ」
そう言って、彼は眼鏡の奥の目をいたずらっぽく細めた。酸いも甘いも噛み分けた老人が、気心の知れた教え子にだけ見せる、茶目っ気のある「してやったり」という顔だ。
「修理費か。……ふん、いや、修理費どころか新品の代金を請求すべきだな。ついでに迷惑料も上乗せしてふっかけてやればよかったものを」
ヴィクトリアは、彼が単なる恐怖に屈したわけではないことに安堵したのか、少しだけ頬を緩めてニヤリと笑った。
「それは考えつきませんでした。そうすれば良かったですね」
二人は、どちらからともなく短く笑い声を上げた。張り詰めていた空気が一瞬だけ和らぐ。
「ところでヴィクトリア様。……例の件は、どうなりましたか?」
バミルトンの含みのある問いに、ヴィクトリアは視線をわずかに落とし、すぐに顔を上げた。
「その話は後日、また改めて。……今は一刻を争う身でね。急いで東へ戻らなければならない。用件を済ませたいのだが……北のマルセルに手紙を書きたい。紙とペン、それと封蝋を用意してもらえるか?」
「承知いたしました。では、こちらを」
バミルトンは躊躇いなく席を立ち、自分が座っていた重厚な執務机を彼女に譲った。本部長の権威の象徴とも言えるその椅子を差し出し、自らは傍らに控えて、最高級の羊皮紙と羽根ペンを整える。
ヴィクトリアは当然のようにその椅子へ深く腰を下ろすと、ペンを手に取った。
アレクとバミルトンが固唾を呑んで見守る中、部屋にはペン先が紙を削る鋭い音だけが響き始めた。
―マルセルへ……。
この度の私の個人的な事件はお前の耳にも入っていることだろう?
単刀直入に言う。
ソルチャーチ教団への寄付を、今後一切ルベライト商会は凍結する。
その理由は分かるはずだと、ベネディクト枢機卿に伝えろ。それだけでいい―
書き終えたヴィクトリアは、右手の薬指に嵌められた重厚な銀の指輪に手をかけた。宝石などは一切あしらわれていない。代わりに、古の職人が精魂込めて彫り上げた三日月が立体的に刻まれている。
ヴィクトリアは、バミルトンが差し出した燃える封蝋の滴を羊皮紙に落とすと、迷いなくその指輪を押し当てた。じゅう、と微かな音と共に、赤い蝋に鮮明な三日月の紋章が刻み込まれる。
「バミルトン本部長、この手紙を一刻も早くマルセルに届けたいのだが……」
「それならば、通常の伝令を使わずに、北へ向かう荷を運ぶ商会の者に手渡すべきでしょう。その方が、街道の宿駅を熟知しておりますし、何より替え馬の融通も利きます。早ければ一月とかからず届くはずです」
「そうか……。ならば頼む」
バミルトンは深く頷き、まだ熱を帯びている書状を恭しく預かった。彼はそのまま執務室を出ると、一刻を争う緊急便を手配するために足早に去っていった。
室内には再び静寂が訪れた。
ヴィクトリアはペンを置き、ゆっくりと背もたれに体を預ける。ずっと傍らで見守っていたアレクが、慎重に言葉を選びながら問いかけた。
「ヴィック……。今の、手紙は……?」
「北のギルド長、マルセルに宛てた。……今後一切、ルベライト商会はソルチャーチ教団への寄付を行わない。それを枢機卿に伝えろ、とな」
ヴィクトリアは、まるで明日の献立でも決めたかのように淡々と言い放った。
「(……そんな手紙一つで、何かが変わるのか?)」
アレクはそう問いかけようとして、言葉を飲み込んだ。
窓から差し込む朝日に目を細めるヴィクトリアの横顔が、微笑んだように見えたからだ。
その微笑みは、美しかった。
アレクの背を、ぞくりと震わせるほどに。
重厚な扉が再び開き、バミルトンが戻ってきた。
「手配は済みました。サンマルコでも指折りの俊足が、既に北の街道へと馬を飛ばしております」
「ありがとう、バミルトン本部長。……これで心置きなく東へ帰ることができる」
ヴィクトリアは、本部長の椅子からゆっくりと立ち上がった。
「アレク……行くぞ。長居をしすぎた」
名を呼ばれ、アレクは弾かれたように歩き出した。
商業ギルド本部を出ると、そこには既に馬の手綱を握り、鋭い眼光で周囲を警戒していたカシアスが待っていた。
「……終わりましたか、ヴィクトリア嬢」
「ああ。種を蒔いてきた。……さあ、東へ帰るぞ。ローゼリアン王国へ」
サンマルコの喧騒は、やがて背後へと遠ざかっていった。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
商業ギルド本部に乗り込んだヴィクトリアは、その圧倒的な権威で本部長を動かし、北のギルド長へ宛てた親書を託す。内容は、襲撃に関与したソルチャーチ教団への寄付凍結という宣戦布告だった。反撃の種を蒔き終えた彼女は、アレクやカシアスと共に、次なる戦いの舞台となる東の王国へ向けて出発する。




