第四十九話 触れ得ぬ傷跡
「カシアスはどこだ! どこにいる!」
ヴィクトリアの怒号が丸太小屋に響き渡ったが、男たちの反応は彼女の期待とは裏腹に、申し訳なさそうな沈黙だった。
「……ヴィクトリア様、ここにはおられません。あの余所者ならサンマルコの宿屋に」
「なんだって!なんでここにいないんだ…お前たち、奴を邪険にしたな!!」
「余所者」という言葉に含まれた微妙な温度差を、ヴィクトリアは見逃さなかった。村の男たちがカシアスをどう扱かったのか想像に難くない。
「いや…それは…滅層もないです…」
ヴィクトリアは左眉を訝しげに上げたが、それ以上追求しなかった。
「すぐに火を起こします! 今、暖炉を……!」
凍てつく雪山から生還した二人を前に、男たちが薪を積み上げようとしたその時、ヴィクトリアが低く鋭い声でそれを制した。
「火は起こさなくていい。すぐにサンマルコへ向かう。カシアスはなんと言う宿屋に泊まっている?」
その一言に、小屋の中がざわついた。ここから居住区のサンマルコまでは、歩いても二十分とかからない距離だ。カシアスのいる宿屋もすぐそこにある。だが、時刻はとうに深夜を回っていた。
「ヴィクトリア様、無茶を言わないでください! この時間に宿屋を訪ねるなんて……!」
「門前払いを食らうのが落ちですよ! それに宿の鍵だって閉まっているはずだ」
村の男たちが必死に立ちふさがる。だが、ヴィクトリアの瞳にはまだ、死線を越えてきたアドレナリンが火花を散らしていた。
「一刻も早く東に戻る…カシアスだってそのつもりのはずだ!」
マリア・ロゼ様を止めるためにも時間はないはずだ。
「夜が明けるまでここで過ごしてください…直ぐに奥の部屋を空けます」
「今日の夕食のスープを温めなおしますので…」
クレミス村の男たちはどうしても朝が明けるまでここにとどまらせるつもりである。
サンマルコには十軒ばかりの宿屋がある。どこに泊まっているのか聞き出さねば探しようもない。
クレミス村の男達が、口を割る気がないと思ったのか
ヴィクトリアが踵を返し、再び夜の闇へ踏み出そうとしたその時だった。
「ヴィクトリア」
背後から届いたその響きに、彼女は心臓を射抜かれたように弾かれた。
振り返った彼女の瞳には、明らかな動揺が走っている。
旅の始まり、男として名乗った「ヴィック」という名を、アレクはずっと使い続けてきた。彼女が女だと、そして「ヴィクトリア」という本名があると知ってからも、彼は一貫して、親愛を込めて「ヴィック」と呼び続けてきたのだ。
その彼が、今、初めて彼女を本名で呼んだ。
振り返った先にいたアレクの表情は、いつもの穏やかなものではなかった。疲労で泥のようになりながらも、その瞳には、一歩も引かない強い意志が宿っていた。
「流石に、皆の言う通りだと思う。ヴィックが気を揉む気持ちはわかるけど……」
続く言葉はいつもの「ヴィック」に戻っていたが、先ほどの一撃が、ヴィクトリアの頑なな心に深く楔を打ち込んでいた。アレクが真っ向から自分を見据え、初めて本名を呼んでまで押し留めた。その事実に、ヴィクトリアの頭に上っていた血が、嘘のように引いていく。
一瞬の沈黙。ヴィクトリアは、ふっと憑き物が落ちたように冷静さを取り戻した。
「……わかったよ。明日の朝にする」
一度言い出したら絶対に曲げない。その強情さを知るクレミス村の男たちは、ヴィクトリアがこれほどあっさりと引き下がったことに驚きを隠せなかった。だがそれ以上に、彼女を納得させてしまったアレクの底知れない芯の強さに圧倒されながら、彼らは心底から安堵した。
急ぎ暖炉に火が焚かれ、夕食の残りが温め直された。
「さあ、まずはこれを。今日の夕飯の、チキンを煮出したスープです。飲んでください」
差し出された熱い木椀を、ヴィクトリアは受け取った。だが、彼女はスプーンでスープを啜りながら、器の中にゴロゴロと入っている肉の塊を、すべて器の隅へと丁寧に追いやっている。
ところが、隣で同じようにスープを渡されたアレクは、申し訳なさそうな顔のまま、一口もつけなかった。
「あ……すみません。俺、チキンは……駄目なので。早くいえばよかったですね」
「ん?」
ヴィクトリアがスープを含んだ口のまま、隣のアレクを凝視した。
一瞬の沈黙の後、彼女の瞳に理解の光が宿る。彼が、あの戒律に厳しい「コンヴェルト」であることを思い出したのだ。
「……チキン以外の物はあるか?」
ヴィクトリアの問いに、村の男が不思議そうに首を傾げた。
「パンならありますが……体を温めるならスープの方がいいでしょう。アレクさんも、そんなに気にしなくて大丈夫ですよ。ほら、ヴィクトリア様みたいに、隅に寄せれば、ただのスープですから」
男は、ヴィクトリアが肉を残しているのも、単なる「好き嫌い」だと思い込んでいたのだ。良かれと思ってアレクに椀を勧めようとした男に、ヴィクトリアの鋭い声が飛んだ。
「こいつはコンヴェルトだ!」
小屋の空気が一変した。
「チキン全般、出汁の一滴すら口にすることは許されない。塊を避ければいいなどという、そんな話ではないんだ!」
男たちは言葉を失った。
コンヴェルト――戒律の厳しさで知られる宗派だ
厳格な戒律を持つその信仰において、禁忌を犯すことは魂を汚すことに等しい。
「し、失礼しました! ただの好き嫌いだとばかり……! すぐに別のものを……!」
男たちは慌ててアレクの前のスープを下げると、厨房へと走った。
やがて運ばれてきたのは、乾燥させたパンに干し肉を挟み、暖炉の火で炙ったホットサンドだった。
「すみません、今はこれくらいしか……」
「……いえ、ありがとうございます。助かります」
アレクは安堵したように、熱を帯びたパンを両手で受け取った。ヴィクトリアはそれを見届け、自身は相変わらず肉を避けたまま、静かにスープを啜り続けた。
その手元を、アレクはじっと見つめていた。
「(……そうだ。ヴィックは、ずっと肉を食べない)」
思い返せば、旅の最中、肉が出てくればヴィクトリアは肉の塊を隅に追いやって一切口にしなかった。クレミス村ではヴィクトリアの目の前に肉料理が出ることはなかったし、雪山を下山する際にハンナが持たしてくれた食料には一切肉がなかった。
好き嫌いとか言う問題ではないのかもしれないとアレクはようやく感じ始めていた。
だが、それを聞くのは彼女の過去に踏み込まなければならなくなるのだ。
それは、東のローゼリアン王国での惨劇。王位継承を巡る激しい籠城戦。
食料が尽き果てた極限の飢えの中、彼女が自らの手で、愛すべき愛馬を殺して食料にせねばならなかったあの過去。
彼女が肉を食べないのは、食べられないのは――。
彼の中で答えは出ていた。
だがそれが正しいのかどうかを確かめる勇気がアレクにはなかった。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
深夜、カシアスを追おうとするヴィクトリアをアレクが本名で呼び制止する。村人の好意で出された鶏肉のスープに対し、戒律で禁忌とするアレクと、過去の凄惨な籠城戦のトラウマから肉を拒むヴィクトリア。ヴィクトリアの「触れ得ぬ傷跡」を察しながらもアレクにはそれを聞く勇気が持てなかった。




