第四十八話 嵐を呼ぶ帰還
カシアスとの約束――『ヴィクトリアが村に居るなら狼煙を上げる』。
その役目を果たしてからラシードはアイラとマイラが住む実家ではなくて、自宅に戻った。
夜になると外の猛吹雪はクレミス村を飲み込まんばかりに荒れ狂った。
薄暗い広間の囲炉裏で、爆ぜる火をただ見つめている。脳裏をよぎるのは、昼過ぎに目が覚めた時の、あの凍り付くような感覚だ。
「(俺は何てことを……。酒に呑まれて寝ている間に、あいつらは死地へ向かってしまった)」
右肩を負傷したヴィクトリア。彼女を支えてこの地獄のような雪山を下るというアレク。
二人が命懸けで村を出た時、自分は泥のように眠っていた。その情けなさと、「あの雪山を下りられるはずがない」という絶望的な確信が、ラシードの心を責め立てる。
不安を紛らわすように、ラシードは広間を何度も、意味もなく往復していた。床板がミシリ、ギィと深夜の静寂を乱す。
「いいから、とにかく静かにしてちょうだい!」
と、絹の寝衣を纏ったエリスが現れた。
膨らんだ腹部を片手で支え、怒りを露わにして夫を睨みつける。彼女は村の事情にも、家のことにも、微塵の興味も持っていない。
「なにをさっきから苛ついているのか知らないけれど、私をこれ以上不愉快にしないで!! あなたが落ち着きなく動き回るせいで、お腹の子まで暴れだして眠れないわ。大体、あなたは図体が無駄に大きくて、歩くだけで家全体が振動するのよ。野暮ったい熊が家の中で暴れているのかと思って、気が滅入るわ」
「……すまん。だが、どうしても落ち着かなくてな」
「理由なんて聞いていないわ! あなたが起きていたところで何も変わりはしないでしょう。そんな無意味な情緒不安定に付き合わされる、私とお腹の子の身にもなってちょうだい。さっさと座るか、寝るかして!」
エリスは夫の葛藤を問おうともせず、ただ自分への実害だけをなじり、冷たく突き放す。
ラシードが言葉を失い、項垂れたその時だった。
「……お父ちゃん」
扉がカチャリと空いて、小さな人影がふらりと現れた。寝姿ままの息子のディオだ。
「ディオ、どうした?」
ラシードは、エリスの視線を気にしながらも、その身体を折り曲げるようにして息子の高さまで顔を近づけた。不安で張り詰めそうな心に、ディオの静かな佇まいが妙に引っかかったのだ。
「心配しなくても…狼さんが迎えに来てるよ」
「……え?」
「真っ白で、お月様みたいな色の狼さん。その背中に、ヴィック姉ちゃんとアレクさんが乗ってる。……あ、アレクさん、すごく恥ずかしそう。……。でも、よかった。二人とも、あったかいよ」
その声は、深夜の空気も相まって、恐ろしいほどの現実味を持って響いた。
エリスの顔から、一瞬にして温度が消えた。彼女は息子を、人ではない異形のものを見るような、怯えを含んだ視線で射抜いた。
「ディオ! またその気味の悪い妄想を……! あなたは、もうすぐ弟か妹が産まれるっていう時にまで、そんな不気味な嘘を吐いて私を不安にさせるの!? 本当に、その薄気味悪い『癖』、いい加減にしてちょうだい!」
「嘘じゃないよ、お母ちゃん。だって、僕、見えるんだもん……」
「黙りなさい!!」
エリスの絶叫が、深夜の家を震わせる。
だが、ディオの目線に合わせるように屈んでいたラシードだけは気づいていた。
ディオの瞳に映っているのは、妄想ではない。山の「奇跡」が、今まさに起きているのだということを。
同時刻、遥か麓の野営地。
南側のモンクス山の偵察を終え、村に帰還するはずだったクレミス村の男たちは、中腹まで降ってしまった雪のために、野営地で逗留を余儀なくされていた。
男たちが重苦しい沈黙の中で静かに寝入る丸太小屋に、東のローゼリアン王国からやって来たカシアスの姿はない。
彼は中心地サンマルコの宿にいた。
彼はヴィクトリアが死ぬとは思ってはいないが、下山には、数日を要することを悟り、今夜は宿を取ることにしたのだ。何より、男たちばかりの小屋に漂う「招かざる客」への空気を、彼は敏感に察していた。
―ドンドンドンドンドンドォン!!
深夜の静寂を切り裂き、丸太小屋の頑丈な扉が、壊れんばかりの勢いで激しく叩かれた。
「ひっ……!?」
「な、なんだ!?」
「熊か!? 熊が襲ってきたのか!?」
心臓を掴み出されるような衝撃に、男たちが悲鳴を上げて飛び起きる。暗闇の中、慌てて槍や斧を手に取り、腰を抜かしながらも扉を睨みつけた。
――ドンドンドンドンドンドォン!!
叩き方は一切の容赦がなく、執拗で、そして何より強烈な「生気」に満ちていた。
見張りの若者が震える手で閂を外し、恐る恐る扉を細く開けた、その瞬間。
そこには、顔色こそ冴えないものの、夜の闇を射抜くような鋭い眼光で仁王立ちするヴィクトリアの姿があった。
その後ろでは、アレクがあたふたと狼狽している。彼は、深夜という配慮から、乱暴に扉を叩くヴィクトリアを必死に止めに入っていたのだが、彼女の勢いを削ぐことなど到底できなかったのだ。
「ひぃ~っ。ゆ……幽霊だぁ!!」
扉を開けた若者が、情けない悲鳴を上げて尻餅をついた。
「早く中へ入れろ! 凍え死んで、本当に幽霊になる!!」
ヴィクトリアの容赦ない怒声が小屋の中に響き渡る。そのあまりの剣幕に、男たちは幽霊どころか生身の怪物を前にしたかのように硬直した。
「……すみません。多分、皆さん寝てましたよね……?」
アレクが、申し訳なさそうに背後から頭を下げる。
「なにを謝ってるんだ、アレク! 来いと言ったから来てやったのに……カシアスはどこだ!!」
ヴィクトリアは雪山で死にそうになっていたとは思えない程の勢いで吠えた。
静まり返っていた野営地は、この一組の男女の帰還によって、嵐以上の騒乱へと叩き起こされたのである。
『本編読まなくても分かる『勇者』簡単物語』
猛吹雪の夜、自責の念に駆られるラシード。一方、息子のディオはヴィクトリアたちの生還を予見し、母エリスを怯えさせる。
同時刻、麓の野営地では死線を越えたヴィクトリアとアレクが突如帰還。深夜の静寂を破る彼女の怒号と生存報告に、男たちは驚天動地の騒ぎに包まれた。




