第四十七話月下の幻想後編
風を切る轟音の中、突如としてアレクの頭蓋の内に、直接「声」が染み込んできた。
『“吾の上で浪漫に浸っているところ悪いが……お前、アレクと言ったな”』
「え……?」
思わず声を漏らしたアレクだったが、前に座るヴィクトリアは無反応だ。
「(心の中に、直接……!?)」
それは以前、地守りのイオと対峙した時と同じ感覚。魂の深層に直接語りかけてくる、人知を超えた存在の波動だった。
『“その昔、本当に遠い昔だ。吾を尊重した族長には、かけがえのない友人が三人おってな……その中の一人が、アレクと呼ばれていた。顔も匂いも、お前はあの男そのものだ”』
オルティスの金色の瞳が、夜風を切り裂きながら過去を追想するように細められる。
『“だが、あやつは少しばかり……いや、相当な女好きでな。それに比べれば、お前は可愛いものだ。馬鹿がつくほど純粋だな。あやつなら、洞窟で女と二人きりになれば、接吻程度で終わらせはせぬだろうからな”』
「い、いや……それは……その……っ」
頭の中に直接、逃げ場のない皮肉を流し込まれ、アレクは猛烈にうろたえた。顔が火が出るほど熱い。
「アレク どうした?急に独り言を言って」
前に座るヴィクトリアが不思議そうに声をかけた。
夜風に揺れる彼女の鮮やかなオレンジ色の髪が、月光を浴びて炎のように揺らめいている。
『“馬鹿者が、声を出すな”』
オルティスは一度、厳しく釘を刺すように脳内を震わせた。
そして、その声から微かな愉しみが消え、冷徹なまでの響きが帯びる。
『“……ここからが本題だ。先ほどまでは、いわば会話の前振りに過ぎん。アレクよ、お前はなぜヴィクトリアについてきた? 命を懸け、恩を売り、いずれ彼女を我が物にするためか?”』
あまりにも直球な、そして侮辱に近い問いが、アレクの意識を貫いた。
夜空を滑るような幻想的な疾走の中で、その言葉だけが逃げ場のない真実として突きつけられる。
『“俺はそんなつもりで……!”』
『“ならば何だ。理由を言ってみろ。打算以外に、一体何があるというのだ!?”』
迷いは一瞬だった。アレクは、目の前で鮮やかにたなびくオレンジ色の髪を見つめ、思考を通さない本音を神獣の意識へと叩きつけた。
『“……俺が、ヴィクトリアの傍にいたかった。それだけです”』
たとえヴィクトリアにその気がなくても。
いつか家族になりたいという願いが、一生叶わないものだとしても、死の覚悟さえよぎった雪山を乗り越え、アレクはこれからも先も彼女の傍にいたいと思うようになった。
『“それを打算と捉えられるなら……打算でもいい。見返りが欲しいわけじゃない”』
その言葉に、オルティスは地響きのような鼻鳴らしをひとつ。
「ほう……それがお前の本音だな」
今度は脳内ではなく、夜の静寂を震わせる実体のある「声」だった。
『“お前はこれから先も、ヴィクトリアの傍にいれば必ず地獄を見ることになるぞ。……今回のような死の覚悟だけではない。色々な感情を揺さぶられ続けるだろう。その覚悟を持っておくことだ。アレクサンダー・ハートレイ”』
ーそれは予言なのか、それとも警告だったのかー
アレクがその言葉の真意を問い返す間もなく、白銀の巨躯は最後の跳躍を見せた。
一際高く舞い上がった視界の先、雲海を抜けた暗がりの底に、登山口の野営地から漏れる幾筋かの火の光が見えた。暗闇の中で小さく爆ぜるように揺れるその橙色は、凍てつく雪中を歩み続けてきた二人にとって、何よりも懐かしく、温かな生還の兆しだった。
やがて、オルティスは野営地の喧騒が届かぬ岩陰で、静かにその足を止めた。
「……ここでよい。これ以上進めば、人の子らが騒ぎ出すからな」
月明かりの下、二人は吸い付くような白銀の毛並みに名残惜しさを感じながら、ゆっくりとその背から降りた。
ヴィクトリアは、乗る前には「最初から助けてくれればよかったのに」と身も蓋もない言葉を投げかけていたが、別れの間際になると、しんみりとした様子でオルティスの巨大な顔の傍へと歩み寄った。そして、その硬質な毛並みにそっと頬を寄せ、慈しむように目を閉じる。
「オルティス様……。先ほどは、失礼なことを言って悪かった。……お元気で」
「……ふん、可愛くない娘だ。だが、お前たちは吾のように永遠の時を生きてはいない。無茶をするな、ヴィクトリア。……これは吾の願いだ」
オルティスは最後に優しく鼻を鳴らすと、一度も振り返ることなく、再び白銀の闇へと溶けるように消えていった。
静寂が戻った闇の中で、ヴィクトリアはアレクの顔をじっと覗き込んだ。
「……おい、アレク。さっき、オルティス様と何を話していたんだ? ずっと妙な顔をしていたが」
「えっ……!? いや、それは……」
アレクは言葉に詰まった。まさか「お前は女好きのアレクと顔も匂いも似ている」とか「ヴィクトリアの傍にいるのは地獄だぞ」なんて言われたとは口が裂けても言えない。
「……男同士の、秘密の会話です」
アレクが必死に平静を装ってそう答えると、ヴィクトリアは意外そうに眉を跳ね上げた。
「男同士? ……アレク、お前何を言っているんだ?」
「え?」
「オルティス様は、性別で言えば女のはずだ。トレデウス神話でも『雄の金狼・雌の銀狼』として語られているからな」
「…………は?」
アレクの思考が凍りついた。
「えっ……メ、メス……? 女、だったんですか……?」
てっきり、あの口調だから雄だと思っていた。
だが次の瞬間、アレクは気づく。
——ヴィクトリアも、女性だが男言葉だ。
ぼう然と立ち尽くすアレクを置いて、ヴィクトリアは不思議そうに首を傾げながら、野営地へと歩き出した。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
神獣オルティスに乗るアレクは、脳内に直接届く「声」で執拗な皮肉と、ヴィクトリアの傍に居続ける覚悟を問われる。本音をぶつけ生還を果たしたアレクだが、別れ際にオルティスが実は「雌」だったと知り愕然とする。男勝りな神獣の迫力に圧倒されつつ、二人の雪山行は幕を閉じるのだった。




