第四十六話 月下の幻想 前編
そこにいたのは、吹雪の化身と見紛うばかりの白銀の巨体だった。
岩穴の入り口を塞がんばかりの巨躯を覆うのは、鋼のように硬質な毛並み。焚き火の光を反射して怪しく光る金色の瞳が、射抜くような鋭さでアレクを捉えた。
「……っ、あ……」
アレクは声も出せず、ただ膝の上で眠るヴィクトリアを守るように抱き寄せるのが精一杯だった。肌を刺すような、圧倒的な捕食者の威圧感。心臓が一拍、遅れてはねた。
しかし、その巨獣が口を開いた瞬間に放たれたのは、地響きのように重厚でありながら、驚くほど理知的な「声」だった。
「全く……我が名付け子は、相変わらず無茶をする」
「(名付け子? 一体、誰のことを言っているんだ……)」
混乱するアレクの心中を読み取ったのか、巨獣は静かに続けた。
「お前がヴィックと呼んでいる、そこに横たわる娘のことだ」
「名付け子」、そして「娘」。
そのキーワードを聞いた瞬間、アレクの脳内で奇妙な回路がつながった。
「(そうか、ヴィックは『半獣』だったのか……!)」
妙な納得が彼を支配した。確かに彼女の美しさ賢さはどこか浮世離れしている。人外の血を引いていると言われれば合点がいく。
そこからアレクの思考は、さらに制御不能な方向へと飛躍していった。
「(いや待て……。この巨獣は声も威厳も『雄』だ。ヴィックの父親は、赤髪の双剣使い。え?同性婚で子供ができるのか?!魔物なら可能?!
そうか……。
人間(男)✕魔物(雄)から産まれた半獣。だから、彼女はあんなに頑なに「子供を産む気はない」と言っていたのか!)」
自分の想像した凄まじすぎる出自に、アレクはガタガタと震え出した。
「おい! なぜ、そう斜め上の発想をするのだ!!」
洞窟を震わせるような怒声が響いた。威厳に満ちていたはずの巨獣が、呆れたように鼻を鳴らした。
「お前という奴は……。いいか、ヴィクトリアは紛れもない人間だ。吾はただ、彼女に名を授けただけに過ぎん!」
言い終わった途端、白銀の巨獣は喉を鳴らした。
「ククク……」
それは吹雪の唸りのような、荘厳ながらも愉しげな笑い声だった。
「あの地守りのイオが、お前を『純粋な馬鹿』呼ばわりしておったが……なるほどな。馬鹿を通り越して、これほど面白ければ退屈せんわ」
「え……? イオ様を、ご存知なのですか?」
アレクが驚いて問い返すと、巨獣は自慢の白銀の毛並みを揺らし、金色の瞳を細めて誇らしげに胸を張った。
「当然だ! 吾を誰だと思っている?」
その問いに対し、アレクは一点の曇りもない、純粋そのものの瞳で見つめ返して言い放った。
「……誰ですか?」
その瞬間、洞窟の空気が凍りついた。
威厳に満ちていた巨獣は、ガクリと大きな頭を落とし、深いため息と共に前脚を滑らせた。神々しいオーラが台無しになるほどの、あまりに完璧な「脱力」だった。
「吾を知らぬだと……!? トレデウスの山に踏み入りながら、この吾を知らぬ者がいるとは……」
あまりの衝撃に言葉を失い、鼻を鳴らして呆れる巨獣。
その時、アレクの膝の上から、鈴の音を転がしたような涼やかな声が響いた。
「トレデウス山の神の使い。神獣オルティス様……」
「ヴィック……!?」
いつの間にか目を覚ましていたヴィクトリアが、アレクの膝の上でそう答えていた。
彼女は驚くアレクの腕をそっと解くと、そのままゆっくりと体を起こした。
「オルティス様、そもそもアレクは、エルナス教の信者ではないから、トレデウス山の神話を知らなくて当たり前だ」
「ふん……。吾は神話扱いか。まぁよい」
オルティスは不満げに鼻を鳴らしたが、すぐにその大きな瞳に柔和な光を宿した。
「ヴィクトリア、此度は吾が麓まで送り届けてやろう」
そう言うと、オルティスは巨大な体を低くかがませ、二人に自分の背へ乗るよう促した。神の使いに跨るなど、常人であれば恐れ多くて震え上がるような光栄な提案だ。
しかし、ヴィクトリアは感謝の言葉を口にするどころか、じろりと不機嫌そうな視線をオルティスに向けた。
「……どうせ助けてくれるつもりだったのなら、最初からそうしてくれればよかったのに。そうすれば、こんな雪道を死ぬ思いで歩かなくて済んだ」
「な……っ」
厚意を無碍にされたオルティスは、絶句して目を丸くした。
「ヴィ、ヴィック! 滅多なことを言っちゃあ」
アレクが慌てて割って入るが、オルティスは呆れ果てたように首を振った。
「ヴィクトリア……おぬし、随分と可愛くない言葉を吐くようになったな。そこは吾に、心からの感謝を捧げるべき場面ではないのか?」
「私は事実を言ったまで。名付け親なら、もう少し融通を利かせてくれてもいいじゃないか」
「主というやつは……。全く、この馬鹿といい、おぬしといい、吾を敬うという心を知らんのか」
深いため息をついて大きな頭を横に振ると、白銀の毛並みをわさわさと震わせたオルティスだったが、その声には不思議と冷たさはなかった。
アレクは恐る恐る、しかしそのあまりにも暖かく、柔らかな白銀の毛並みに手をかけ、ヴィクトリアと共にその背へと這い上がった。
アレクがヴィクトリアを支えながらその背に跨ると、オルティスは静かに立ち上がった。
視界が一気に跳ね上がる。見上げるほどだった岩穴の天井がすぐ目の前に迫り、アレクは思わずその白銀の毛並みに指を沈ませた。
「落ちるなよ。」
オルティスが低く唸った直後、世界が弾けた。
岩穴から躍り出た巨躯は、重力を無視するかのような軽やかさで雪の斜面を蹴った。
「……っ!?」
あまりの速さに、アレクは息を呑んだ。
馬の疾走とは根本的に違う。それは走るというより、月明かりの中を滑空しているようだった。
周囲の景色は白銀の奔流となって後ろへと消え去っていく。
吹き付ける風はナイフのように鋭いはずなのに、オルティスが纏う神聖な気力のせいか、不思議と寒さは感じない。それどころか、彼の体から発せられる熱が、凍えていたアレクたちの芯を優しく温めていた。
「見ろ、アレク……」
ヴィクトリアの囁きに顔を上げると、そこには息を呑むような絶景が広がっていた。
雲を突き抜けた高みから見下ろすトレデウス山は、月光を浴びて青白く輝く巨大な水晶の塊のようだった。遥か眼下では、雲海が生き物のようにうねり、星々がそのすぐ隣で瞬いている。
オルティスが雪原を蹴るたびに、足元から光の粒子のような雪煙が舞い上がり、尾を引いて夜空に溶けていく。
静寂を切り裂く風の音と、規則正しい力強い鼓動。
アレクは、自分たちが今、伝説のひとかけらの中にいるのだと確信した。
やがて、オルティスは速度を緩めることなく、さらに急峻な崖を飛ぶように降りていく。
その背中で、アレクはヴィクトリアを抱きしめる腕に力を込めた。
この幻想的な夜が、どうか永遠に続いてほしいと願わずにはいられなかった。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
雪山の洞窟で窮地のアレクとヴィクトリアの前に、神獣オルティスが現れる。ヴィクトリアの「名付け親」を自称する巨獣に対し、アレクは斜め上の勘違いで爆笑を誘うが、神獣の背に乗り月下の雪原を駆ける幻想的な体験に心を奪われる。まさに伝説の一夜だった。




