第四十五話 覚悟の灯火
雪は、一歩ごとに命を削る「壁」となって二人の前に立ちはだかっていた。
標高2,500メートルの村を出てから数時間。ヴィクトリアは、雪を掻き分ける脚の感覚がとうに失われていることに気づかないふりをして、アレクの前を歩き続けていた。
背後では、アレクが黙々と薪を積んだソリを引き続けている。一度も足を止めず、弱音一つ吐かない。その沈黙の献身だけが、ヴィクトリアを突き動かす唯一の動力だった。
だが、岩穴が近づくにつれ、山はさらに牙を剥いた。
「……っ、ヴィック! 前が!」
アレクの叫びとともに、世界が白一色に塗り潰された。
突如として吹き下ろしてきた猛烈な突風が、積もった新雪を巻き上げ、視界を完全に奪う。
ヴィクトリアの計算では、標高を下げるにつれて風は和らぐはずだった。だが、アイラの懸念は最悪の形で的中した。
「……すぐそこだ。この岩陰を回れば……」
ヴィクトリアの言葉は、もはや形をなさない掠れた吐息だった。
猛烈な地吹雪の中、視界を塞ぐ白銀の壁を割り、指先の感覚を完全に失いながら岩壁を這う。
そして、ついに雪に半分埋もれた、黒々とした岩穴の入り口が姿を現した。
「ヴィック、あそこですね……! 助かった……!」
背後でソリを引くアレクの声に、安堵の響きが混じる。
しかし、その声を聞いた瞬間だった。
岩穴の平坦な床に足が掛かった刹那、張り詰めていた一本の糸が、音を立てて千切れた。
「……あ」
ガクン、と膝から力が抜け、ヴィクトリアの身体が脆く崩れ落ちた。
「ヴィック!」
アレクはソリのロープを放り出し、間一髪でその身体を抱き止めた。腕の中のヴィクトリアは、意識こそあるものの、身体は氷のように冷え切り、自力で上体を支えることすらままならない。
アレクは躊躇わなかった。
入り口付近はまだ地吹雪が舞い込み、命を削る冷気が渦巻いている。彼はヴィクトリアの身体を横抱きに抱え上げると、岩穴のさらに奥、風の音が遠のく突き当たりまで一気に運び入れた。
「……アレク、ソリが……」
「後でいいです。まずはここでおとなしくしててください!」
ヴィクトリアを乾いた岩肌に預け、自分の外套まで脱いで彼女を包み込む。それからアレクは入り口に引き返し、薪を積んだソリを必死に奥へと引きずり込んだ。
火を熾し、パチパチという爆ぜる音が響き始めてようやく、アレクはヴィクトリアの傍らに腰を下ろした。
「……すまない、アレク。不覚を取った」
ヴィクトリアは火を見つめ、土色の顔で小さく呟いた。
計算では、ここまでは余力を残して辿り着くはずだった。だが、狂ったような山の荒れ方は彼女の体力を限界まで奪い去っていた。
「謝らないでください。俺だって、ヴィックがいなきゃここまで来られなかった」
アレクは努めて明るい声を出したが、ヴィクトリアの瞳には、かつてない自責の色が滲んでいた。
彼女自身は、とうの昔に死を恐れる心を失っている。
あの凄惨な王位継承戦。飢えに喘ぐ籠城戦の最中、彼女は自らの手で愛馬サンダーを撃ち、食料にした。
あの時、ヴィクトリアの魂の半分は死んだのだ。
いつか自分も、サンダーのいる場所へ堕ちる。それが唯一の救いだとさえ思っていた。
火を見つめる彼女の脳裏に、昨夜の広間の食卓での光景が去来する。
下山を決意し、食卓から自室に戻ろうとした自分を、アレクは必死に追いかけてきた。
彼は「一緒に行きたい」という願いを飲み込み、唇を噛み締め、歪んだ微笑みを浮かべて「パリスを任せてください」と自分を送り出そうとした。
あの時、非情になればよかった。
白カモメ亭の時のように、彼を置いていけばよかったのだ。
なのに、彼のあの表情を見た瞬間に、彼女は抗えず言ってしまった。
「なんだ、ついてこないのか?」と。
その結果が、これだ。
自らの『甘さ』と『弱さ』が、アレクをこの凍死の淵へと連れてきてしまった。
もしあの時、何も言わずに背を向けていれば、彼は今ごろパリスと共に村の温かい場所で笑っていたはずだ。
自分一人の命なら、この雪の下に捨てても惜しくはない。しかし、自分を信じてソリを引き続けたアレクを、道連れにすることだけは許されない。
ヴィクトリアは震える手で自らの膝を叩き、消えかけそうな意識の火を強引に燃やし、己を奮い立たせた。
「ヴィック、何か食べましょう?」
アレクはサッチェルからハンナが用意してくれた保存食を取り出した。
包みの中には、布に厳重に包まれた大きな塊のハードチーズと、薄く切られた黒パンが入っていた。アレクはナイフでチーズを削り、黒パンに乗せて火に翳す。熱でチーズの縁がとろりと溶け出し、香ばしい匂いが岩穴に広がった。
アレクは自分用の黒パンを齧りながら、ヴィクトリアがチーズを咀嚼する様子を静かに見守る。彼女が喉を鳴らして飲み込むたびに、アレクの胸の内の強張りが、ほんの少しずつ解けていくようだった。
食事を終えたあと、蓄積した疲労と空腹が満たされた安堵からか、ヴィクトリアの瞼が重く落ち始めた。
「少し眠ってください、ヴィック。一時間経ったら起こします。交代で火の番をしましょう」
「……ああ。一時間だぞ、アレク」
彼女は自分自身に言い聞かせるように微かに震える声で呟いたが、その意識はすでに混濁していた。
岩穴に入ってからも地吹雪は止まず、空からはさらなる雪が降り始めていた。今、眠りに落ちることは、そのまま二度と目覚めない「永遠の眠り」に繋がるかもしれない。
アレクは何も言わず、隣に座る彼女の冷え切った頬に、そっと手を添えた。
ヴィクトリアはその感触を拒まなかった。
それどころか、吸い寄せられるように、彼の手に自らの顔を預けた。
二人の視線が、揺れる焚き火の光の中で重なり、そして静かに、唇が触れ合った。
―それは愛の告白ですらない。
ただ、消えゆく命の熱を分け合い、互いの鼓動がまだ止まっていないことを確認するための、切実で、痛いほど静かな儀式だった。
接吻を解いたアレクの瞳には、一切の迷いがない、透き通るような『覚悟』が宿っていた。
ヴィクトリアはその瞳に宿る色に、言葉にならない安堵と悲しみを感じながら、重い瞼を閉じた。
彼女はそのままアレクの肩に頭を預け、抗いようのない深い眠りへと落ちていった。
アレクは自分の肩で寝てしまったヴィクトリアを起こさないよう、細心の注意を払って彼女の身体を支え、自らの膝の上にその頭を静かに横たえた。
一時間、二時間……。
アレクは彼女を起こさなかった。薪を絶やさぬよう炎を見つめ、たった一人で灯火を守り続ける。
自分はもう、この山を下りることはないだろう。
けれど、せめてこの火が消えるまでは。
この膝の上の温もりが、彼女を包んでいる間までは…。
やがて、狂ったような風の音が嘘のように止ん辺りは静寂に包まれた。
その静寂を破るように、岩穴の入り口から巨大な影がゆっくりと伸びてくる。
「……っ!?」
アレクの心臓が、跳ね上がった。
『本編読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
猛烈な地吹雪の中、ヴィクトリアとアレクは命からがら岩穴へ逃げ込む。極限状態で見せた甘さと弱さに自責する彼女を、アレクは献身的に支え、二人は静かに唇を重ねる。疲弊した彼女を眠らせ、独り火を守り続けるアレク。覚悟を決めた彼の前に、嵐の去った静寂を破る巨大な影が迫っていた。




