第四十四話 紅蓮の合図(シグナル)
トレデウス山の登山口、山脚の野営地。
見上げる山肌は、中腹の『境界の岩場』を境に、世界が断絶されたように不気味な白銀へと変わっていた。
夜明け前の青白い闇の中、カシアスは一人、高台から山頂を見つめていた。その視線は、天を衝く白銀の山頂一点に注がれている。
「……上がれ。上がるんだ」
祈るような、あるいは呪うような低い呟き。
指先は寒さで感覚を失い、まつ毛には白く霜が降りている。だが、彼は瞬きすら惜しむように空を凝視していた。
そんな彼の背中を、丸太小屋の窓からクレミス村の男たちが眺めていた。
「……まだ立ってやがるのか、あの余所者は」
若手の猟師が、温かいエールを啜りながら皮肉げに鼻を鳴らした。
「もう三時間だぞ。あの凍てつく風の中に立ち続けて、よく指が落ちないもんだ」
「それだけ必死なんだろうさ。だが……」
年嵩の男が、暖炉の火を見つめたまま重い口を開いた。
「本当に、我が族長は無事に村へ着かれたのか。あの『いかだ』を出すには最悪の風だった」
「ああ。それに、もし着いたとしてもだ。本当にヴィクトリア様がそこにいらっしゃる保証なんてどこにもない」
男たちの間を、不安という名の冷気が通り抜ける。
彼らにとってラシードは、命を預けるに値する唯一無二の族長だ。その彼が、板切れ一枚で吹雪の深淵へ消えてから、音沙汰はない。
「なあ。もし……もし本当にヴィクトリア様が村にいて、約束通り狼煙が上がったらどうする?」
一人の男の問いに、場がしんと静まり返った。
「どうする、とは?」
「……俺は、むしろ狼煙なんて上がらないでほしいと思ってる」
若い男が吐き捨てるように言った。周囲が色めき立つ。
「貴様、族長の不首尾を願うのか!」
「そうじゃない! 考えてもみろ。もし狼煙が上がれば、それは『ヴィクトリア様がいる』という合図だ。……だがな、居たとしても、どうやってあの雪山を降りてくるってんだ?」
誰も反論できなかった。雪と共に生きる彼らだからこそ、冬のトレデウスを下ることがどれほど「物理的な不可能」に近いかを知り尽くしている。カシアスが抱く希望は、彼らにとっては残酷な破滅への呼び水にしか見えなかった。
「……う、ぐ……っ」
割れるような頭痛とともに、ラシードは寝台から這い出した。カーテンの隙間から差し込む光が、容赦なく網膜を刺す。
「おい、ラシード! 起きなさい、このバカ息子!」
アイラの怒鳴り声と同時に扉が蹴破られた。
「……うるさい。今、何時だ」
「何時だじゃないよ! 朝日はもうとっくに昇りきってる。ヴィクトリアたちは一刻も前に出発したよ!」
「……ヴィクトリアたち?」
ラシードはこめかみを強く押さえた。昨夜の酒の残滓が頭の中で暴れている。
「おい、お袋。ヴィクトリアがここを出たのはわかる。だが、誰がついていったんだ? ……まさか、あの客人のガキか。アレクとか言ったか」
アイラは無言で、薪ストーブの上の薬缶を見つめている。その沈黙が肯定だった。
「何を考えてやがる。……お袋、なんであんな奴を黙って行かせた。あの客人は何者なんだ? 雪のエキスパートか何かか? 雪山心中でもするつもりか、あの二人は!」
ラシードの問いに、アイラは遠く吹雪の向こうを見つめたまま、静かに首を振った。
「さあねえ。……でも、覚悟を決めた男を誰も止められないよ。トーリィを誰も留められなかったのと同じさ」
ラシードは二の句が継げず、窓の外の白い地獄を睨みつけた。胸の奥に、得体の知れない焦燥と、泥のような自己嫌悪が渦巻く。自分が動けない間に、何かが決定的に動き出してしまった。
ラシードは村の石造りの狼煙台の前へ向かった。
手には火のついた松明がある。
台には乾燥した薪とともに、緊急時を告げるための赤い染料を染み込ませた獣脂が積み上げられている。
これを焚けば、野営地で待つカシアスたちに「ヴィクトリアはここにいる」という報せが届く。
もし、今ここで狼煙を上げなければ、彼女たちは下山を諦め、戻って来るのではないか。一瞬、そんな考えが頭をよぎる。
だが――。
「……行っちまったもんは、止まんねえか」
ラシードは荒々しく松明を振り下ろした。
薪に火が燃え移り、獣脂が爆ぜる不気味な音が響く。やがて、重く濃密な「赤」が、天を衝く勢いでトレデウスの白い空へと立ち昇っていった。雪原の白を切り裂くような、鮮烈で、どこか血の匂いを感じさせる赤。
「トーリィ。……そして、あの馬鹿な少年も。……死ぬんじゃねえぞ」
高く、どこまでも高く昇っていく赤い一筋を、ラシードは祈るような、あるいは呪うような眼差しで見送り続けた。
「……上がったぞ」
カシアスの裂けるような叫びが、凍てつく空気を切り裂いた。
予定の時間を大幅に過ぎ、絶望が支配しかけていた野営地に、一筋の紅蓮の煙が立ち上る。
「本当に、ヴィクトリア様は村にいらっしゃったんだ!」
「ラシード様もご無事だ!」
歓喜に沸く小屋の中。だが、窓際でエールを啜っていた年嵩の男が、重い腰を上げてドアを開けた。溢れ出した暖炉の熱気とともに、雪の中に立ち尽くすカシアスへ声をかける。
「おい! あんた。もういいだろう、中に入れ」
「……何を言う。狼煙が上がったんだ。ヴィクトリアがそこにいる! 私はここで彼女を待つ――」
「ここで待っていても、今日中にはあんたの待ち人は来ない」
年嵩の男の突き放すような言葉に、カシアスは凍りついた顔を向けた。
「……何だと? 狼煙を合図に、彼女はすぐにここへ降りてくるはずだ。当然だろ」
「この雪の山を下りるのに、一日で来れるとでも思っているのか?」
「歩いて下山するわけではないだろう! ほら、お前たちの族長はあの『滑車』を使って一気に登っていった。あれを使って下りてくれば、すぐ――」
カシアスが指差した断崖の上、雪に埋もれたワイヤーを見つめ、男は鼻で笑った。
「あれは人が乗るもんじゃない。族長だからこそ、死ぬ気で飛び乗っただけの代物だ。下る勢いでワイヤーが切れれば、待っているのはただの墜死だ。1日で村まで戻れる―そんな魔法みたいな道具があるなら、今ごろ全員村に戻ってるさ」
カシアスは言葉を失った。
山を知り尽くした男の言葉には、反論を許さない重みがあった。
救いのファンファーレだと思っていたあの赤い煙が、今は、白銀の墓標の上に手向けられた血の跡のように見えていた。
「あんたの待ち人がもしここへ来るのなら、今、地獄のど真ん中に足を突っ込んでるはずだ。……それとも、二度と会えないか。……中で祈りながら待つんだな、余所者」
バタン、と重いドアが閉まり、カシアスは再び静寂と極寒の中に残された。
空を染める赤は、冷酷なまでに鮮やかだった。
『本編読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
雪山トレデウスの麓、カシアスは再会を信じ赤き狼煙を待つ。クレミス村の男たちが下山の「物理的不可能」を説く中、村では族長ラシードが苦渋の決断で点火した。天を衝く紅蓮の煙は吉報か、それとも死の宣告か。地獄の雪原へと足を踏み出したヴィクトリアたちの命運を懸け、白銀の世界に鮮烈な赤が滲んでいく。




