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第四十三話 銀領の訣別

ヴィクトリアの、あの淡々とした、けれど絶対的な拒絶。


『――私は子供を産む気はないんだから……あきらめろ』

その言葉が、アレクの頭の中で幾度も、幾度もぐるぐると渦巻いていた。

考えようとするたびに、胸の奥が鈍く、じわりと痛んだ。


自室のベッドに横たわっても、冷えた指先は温まらず、心に空いた穴を冷たい隙間風が通り抜けていくようだった。


まだ、好きだと伝えたわけですらない。それなのに、彼女が描く将来の図の中に、最初から「誰かと家庭を築く」という選択肢が存在しない事実に、アレクは打ちのめされていた。


しかし、アレクは暗闇の中で強く目を閉じ、枕に顔を埋めた。

「(……いや、今は、こんなことで立ち止まっている場合じゃない。明日、俺が動けなくなったら、それこそヴィックに失望されるだけだ)」


明日は命懸けの冬山下山だ。感情に振り回されて集中を欠けば、自分だけでなく彼女の命まで危険にさらすことになる。


アレクは奥歯を噛み締め、無理やり思考のスイッチを切り替えた。今はただ、彼女の足跡を違えず踏みしめること。それだけを己に課し、浅い眠りへと沈んでいった。


翌朝。窓を叩き続けていた荒れ狂う風の音が、嘘のように止んでいた。

数日間降り続いた雪が止み、空は厚い雲の切れ間から、鋭く冷たいあおを覗かせている。雪が締まり、風が凪いだこの瞬間こそが、下山の唯一の好機だった。


アレクは身支度を整えると、静かに家を抜け出した。向かったのはうまやだ。


ラナハイムで彼女に託されて以来、ずっと旅を共にしてきた驢馬ろばのパリス。しばしの別れを前に、その顔を見ておきたかった。


重い扉をそっと開けると、そこには先客がいた。

「……パリス。しばらくの間、いい子にしていろ。春になったら、必ず迎えに来る」

低く、柔らかな声。ヴィクトリアが、パリスの長い耳を優しく撫で、その平らな額をごつんと自分の額に預けていた。本来の飼い主である彼女に戻る、束の間の休息のような時間。


「ヴィック……」

アレクの呼びかけに、彼女は肩を揺らし、素早くいつもの険のある表情に戻って振り返った。


「アレクか。……こんなに早くから、何の用だ」


「パリスに、挨拶しておきたくて。……ヴィックこそ、もう出発の準備ですか?」


アレクが歩み寄ると、パリスは大きな耳をパタパタと動かし、寂しげに鼻を鳴らしてアレクの袖を食んだ。ヴィクトリアは、そんなパリスの目元を愛おしそうに見つめていたが、すぐにアレクの装備を点検するような鋭い視線に切り替えた。


「……昨夜は、よく眠れたか。顔色が悪いぞ」


「えっ、あ……はい。バッチリです。ちょっと寝つきが悪かっただけで」


アレクは努めて明るく笑ってみせた。心の奥の戸惑いは、分厚い雪の下に隠したつもりだった。ヴィクトリアは一瞬、何かを言いかけたように唇を動かしたが、結局は「ならいい」とだけ短く答えた。


村の入り口では、アイラ、マイラ、そしてハンナの三人が見送りに立っていた。ラシードの姿はなかった。二日酔いである。


「アレク。……あんたには、この頑固な姪を任せたよ」

アイラは、アレクの手をぎゅっと握った。


「えっ、俺がヴィックをですか?」


アイラは真剣な眼差しで続けた。

「そうさ。この子はね、一度決めるとパリスみたいにテコでも動かない。自分の限界を無視して突き進むところがあるんだ。……アレク、あんたがこの子を止めてやっておくれ。無理をさせないように、あんたがしっかり横で支えてやるんだ。いいかい?」


アレクは、アイラの瞳の奥にある深い案じを読み取り、力強く頷いた。

「……はい。約束します。俺が必ず、ヴィックを支えます」


アイラは満足げに微笑むと、最後にヴィクトリアへ向き直った。その視線は鋭く、重い。


「トーリィ」

ただ名前を呼ぶ。その一言に、数えきれないほどの忠告と慈しみを込めて。


ヴィクトリアはわずかに視線を落とし、厚手の羊毛ケープの襟を立て、

「……わかっている」と短く答えた。


二人の足元には、柳の枝と革紐で作られた頑丈な「かんじき」が装着され、手には鉄突きのついた登山杖が握られている。


「じゃあ、行こうか。……アレク、ソリは私が引く」


ヴィクトリアは足元に置かれた荷ソリの紐を手に取った。そこには避難所の岩穴で使うための薪が積んである。彼女が牽引紐を肩にかけようとしたその時、アレクが横からひょいと紐を奪い取った。


「ヴィック、ソリは俺が引きます」


「何を言っている。お前は雪道の歩き方も知らないだろう。先頭を行く者が道を作り、そのままソリを引くのが一番効率がいいんだ。お前にソリを任せて後ろで遅れられたら、それこそ命取りになる」


「わかってます。だから、コースはヴィックが決めて、雪をかき分けて先に進んでください。俺はその足跡トレースを絶対に外さずに付いていきます。それならソリを引いても遅れません」


ヴィクトリアが不服そうに口を開きかけたのを、アレクは柔らかな笑顔で制した。

「昨夜ヴィックも言ったじゃないですか。俺、『バカ力』なんですよ。道を作るのはヴィックに任せます。その代わり、重いものは俺に任せてください」


「……っ」

ヴィクトリアは、自分の言った言葉を逆手に取られたことに一瞬絶句した。

アレクの瞳には、彼女を気遣う優しさと、対等なパートナーとして役に立ちたいという真っ直ぐな意志が宿っている。


「……ふん。好きにしろ。途中で泣き言を言っても、私は代わらんからな」

ヴィクトリアは照れ隠しに顔を背けると、一歩、白銀の雪原へと踏み出した。


「準備はいいな。……一歩でも踏み外せば谷底だぞ。付いてこい!」

「了解です!」


重いソリの紐を肩に食い込ませ、アレクはヴィクトリアが作る雪のわだちを力強く踏みしめた。


背後でハンナが「アレク様、頑張ってー!」と叫ぶ声が響く中、二人の命懸けの下山が始まった。

『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』


ヴィクトリアの拒絶に傷つきながらも、アレクは命懸けの下山を決意する。愛驢馬パリスに別れを告げ、アイラに彼女を支えると誓ったアレクは、自ら重いソリを引き、ヴィクトリアの背中を追う。吹雪が止んだ白銀の世界で、二人の絆と生存を懸けた過酷な雪山行が幕を開ける。

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