第四十二話 刻限の食卓 後編
食卓を後にし、薄暗い廊下を自室へと向かうヴィクトリアの背中を、アレクはたまらず追いかけた。
「ヴィック……!」
呼びかける声が、自分でも驚くほど震えていた。ヴィクトリアは足を止め、ゆっくりと振り返る。
元を辿れば、すべては自分のせいだ。あの宿屋で自分が修道士のハンスに物を盗まれなければ、彼がヴィクトリアを逆恨みし、人を雇って狙撃することもなかった。
そして何より、あと少しでサントゥスに着くというところで、自分が「ユリウスを家まで送り届ける」と言い張り、来た道を戻らなければ……。
「(俺があんなことを言わなければ、ヴィックは今ごろ安全な街にいたはずだ。撃たれることも、こんな命がけの下山をする必要もなかったのに)」
自分の「正義感」や「甘さ」が、結果として彼女を死の縁まで追い込んでしまった。その罪悪感が、アレクの心を激しく苛んでいた。
「ヴィック……本当に行くんですか?」
「ああ。明日の朝日が昇るのと同時に出発しようと思う」
迷いのない返事だった。
アレクは喉元まで突き上げた「俺も行かせてください」という言葉を、血が滲むほど唇を噛んで飲み込んだ。
自分がついていけば、また同じように彼女の足を引っ張るのではないか。
南育ちで雪も知らない自分が隣にいることは、彼女にとってさらなる「重荷」になるのではないか。
「……そうですか」
アレクは、溢れそうになる本音を無理やり胃の底へ押し込んだ。精一杯の強がりで、歪んだ微笑みを作る。
「わかりました。……パリスのことは俺に任せてください。ちゃんと世話をして、春になったらヴィックの元に送り届けます」
言い切ったアレクの肩が、微かに震える。
だが、ヴィクトリアは、意外そうに左眉を上げた。
「なんだ、ついてこないのか?」
「え……? ヴィック……今、なんて……」
予想だにしない問いかけに、アレクは呆然と立ち尽くした。ヴィクトリアは腕を組み、怪訝そうな顔でアレクを見据えている。
「てっきり、お前は『俺も行く』と言うつもりで私を呼び止めたのかと思っていたんだが……私の勘違いか」
「俺は……ついて行きたいです。……でも、俺が居たのでは……」
アレクは視線を落とした。ついて行きたい。けれど、自分の存在がまた彼女の「死」を招くことだけは、何よりも恐ろしかった。
「アレク。明日の下山は相当な覚悟がいる。一歩間違えれば、深い雪の中に埋もれて雪の墓場行きだ。……それでも、お前はついてくるか?」
ヴィクトリアの言葉は重かった。
それは甘い誘いではなく、明確な地獄への招待状だ。
だが、彼女が「同行者」として自分を必要としてくれた。その事実が、アレクの迷いを一瞬で打ち砕いた。
「ついていきます! どんな地獄だって、俺はヴィックの隣に……!」
アレクは嬉しさのあまり、ヴィクトリアに抱きついた。
「……おい、よせ」
ヴィクトリアは突然の抱擁にたじろいだが、歓喜に震えるアレクがさらにぎゅっと力を込めたため、身動きが取れなくなってしまう。
――コホン、コホン。
わざとらしいほど大きな二つの咳払いが廊下に響いた。見れば、広間の入り口でアイラとマイラが、あからさまに「見てはいけないものを見た」という顔でこちらを眺めていた。
アレクはようやく冷静になり、慌ててヴィクトリアを解放して数歩下がった。
「す、すみません! 俺、つい……」
「……バカ力が」
照れ隠しのようにボソリとヴィクトリアが呟いた。その声は、どこか調子を狂わされたような響きを含んでいる。
「さあ二人とも、戻ってきな。まだ誰も夕食をまともに摂ってないからね。これから改めて夕食だ」
アイラが声をかけるが、ヴィクトリアは露骨に嫌そうな顔をして、踵を返そうとした。
「いや、私は夕食はいい……。部屋に戻って明日の仕度を……」
彼女が露骨に嫌な顔をしたのは理由があった。
それはラシードである。
ラシードは酒癖が悪かった。
一杯二杯くらいなら何の問題もないのだが、冬のこんな寒い時は彼は必ず酒をあおる。
そして決まって同じ話で絡むのだ。
ヴィクトリアはその話に辟易していた。
「何を言ってるんだい! ちゃんと食べなきゃ駄目だ」
「そうですよヴィック! もしかして食欲がないんですか? だったらまた、俺が今から魚を獲ってきます!」
この猛吹雪の中、冗談抜きで例の滝壺にまた行くのではないかというアレクの剣幕に、ヴィクトリアは「……っ、やめろ!!」と思わず制止の声を上げた。
不快な絡み酒に耐えるか、それともアレクを凍死の危機に晒すか。 究極の選択を迫られた彼女は、深く重いため息をついた。
「……わかった! 席に着く。だからお前は、これ以上余計な動きをするな」
食卓に戻った一行を待っていたのは、すでに完全に出来上がったラシードの姿だった。
彼は上機嫌で赤い顔をしており、テーブルの上には空になった地酒の瓶が転がっている。
「おい……客人。お前さん、随分とうちの従妹と仲が良いじゃないか。なあ、ぶっちゃけ、どこまでいってるんだ?」
ラシードの粘着質な第一声に、アレクは口に運ぼうとしたスープの匙を止めて硬直した。
「どこまでって、それは……どういう意味ですか?」
アレクは困惑し、小首をかしげて聞き返した。しかし、酔っ払いにその純真さは通じなかった。
「とぼけるなよ。ハンナから聞いたぞ……お前さん、トーリィの婚約者だってな。だったらもう、それなりに『やることはやってる』んだろ?」
直球すぎる言葉が、アレクの耳に突き刺さった。ようやく言葉の真意を悟ったアレクの顔は、瞬く間に熟した林檎のように赤く染まった。
「そ、そんな……! やる、やって……、いえ、俺たちはそんな、そんな不謹慎な……!」
「不謹慎? 婚約者同士だろうが。クレミス村の男なら、これくらいの吹雪の夜にはもう、子供の一人や二人仕込んでるもんだぞ」
アレクが狼狽する間も、ヴィクトリアは、ラシードの言葉など耳に入らないというように、淡々と食事を続けていた。
「おい、トーリィ! 聞いてるのか。さっさと子供を作れ! それも、お前似の気の強い男だ」
ヴィクトリアは冷えたスープを一口飲み干し、ようやく口を開いた。
「またその話か! 酔っ払うとそれしか言わないなお前は」
「なんだとぉ!? 俺は真面目に跡目問題に言及しているんだぞ」
「何を言ってる。お前のあとはお前の息子のディオが跡を継ぐ。だいたい私は子供を産む気はないんだから……あきらめろ」
ヴィクトリアの口から放たれたその言葉は、吹雪の夜風よりも鋭く、アレクの胸を貫いた。
それは冗談でも照れ隠しでもなく、帳簿の数字を書き込むような淡々とした、けれど絶対的な響きを持っていた。
「……えっ」
アレクの手から力が抜け、持っていた匙がカチャリと音を立てて皿に落ちた。
「(子供を、作る気がない……?)」
アレクは、ヴィクトリアへの自らの気持ちを痛いほど自覚していた。
今はまだ自分は何者でもない。だが、いつか自分の足元を固めたら、この気持ちを打ち明けて結婚を前提に付き合いたいと思っていた。
その未来図には、温かな家族を築くという願望も、当然のように描かれていたのだ。
ショックのあまり、ラシードがその後も「おい客人、聞いてるか!」「しけた面すんなよ!」と絡んでくる声も、もはやアレクの頭には入らなかった。
「いい加減にしなよ、ラシード! 恥を知りなさい!」
アイラが鋭くたしなめ、マイラも「そうよ、客人の前でルベルコルスの恥をさらすんじゃないわ!」と畳みかける。
「私はもう行く。……アレク、お前も早く切り上げろ。これ以上酔っ払いの相手等するな、明日の下山に障る」
ヴィクトリアはピシャリと言い捨てると、最後に残った水を飲み干し、席を立った。
アレクは、遠ざかる彼女の背中を見つめることしかできなかった。
つい先ほど、抱きしめた時の彼女の温もりが嘘のように、アレクの心は冷たく、深い空虚に包まれていた。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
雪山下山するヴィクトリアを見送る覚悟をしたアレクだったが、ヴィクトリアの誘いで共に下山することを決意し、歓喜のあまり彼女を抱きしめてしまう。しかし、その後の夕食で酔ったラシードに絡まれたヴィクトリアは「子供は産む気がない」と断言。彼女との未来を夢見ていたアレクは、その冷徹な一言に激しくショックを受ける。




