第四十一話 刻限の食卓 前編
「この野郎! な……なにをやってる、人の部屋で……」
ここは、ラシードが結婚するまで過ごした自分の部屋だ。
今は客室として使われていることは理解していたはずだったが、目の前で従妹が見ず知らずの若い男と密着している光景に動揺し、思わずそう口走ってしまった。
二人は同時にラシードの方を振り返った。
アレクは、全身から雪解けの水を滴らせ、氷の魔像のような存在感で立ち尽くす男に困惑し、身を強張らせた。
しかし、ヴィクトリアは眉一つ動かさない。
「なんだ、ラシードか。偵察に行ったんじゃなかったのか? ……随分と派手な帰還だな」
冷徹な、けれどどこか呆れたような問いかけに、ラシードは沸騰しそうだった頭に冷水を浴びせられたような感覚に陥った。
凍りついた前髪を荒々しくかき上げると、怒りと安堵の混ざった掠れた声で答えた。
「……不審者どころじゃない。登山口にいたんだよ。お前を連れ戻しに来たという、ローゼリアンの『カシアス』と名乗る男がな」
「カシアスだと?」
ヴィクトリアの瞳が初めて鋭く細められた。アレクの手の上に置かれていた彼女の指先に、微かに力がこもる。
「ああ、そうだ。あいつは狂った目で言ってたぞ。お前が銃撃されたこと、そして今、王国がお前のために取り返しのつかない事態に陥りつつあることをな。……それを聞いて、あの『滑車』を動かしてまで死ぬ気で駆けつけてみれば、この男は誰だ? なぜお前を『ヴィック』などと呼び、俺の部屋でいちゃついてやがる!」
「……いちゃついているだと? 随分と下俗な解釈をするものだな。それにラシード……」
ヴィクトリアは、アレクの手元を覗き込んでいた姿勢を正すと、わずかに眉を寄せて言葉を継いだ。
「不躾に扉を開けておいて、開口一番に『この野郎』とは心外だ。私は野郎ではないぞ。これでもれっきとした女だからな」
「そ、それは……言葉の勢いだろうが!」
「それに、ここはもうお前の部屋ではないはずだ。今はアレクが客として扱われて、使っている。ならば、この部屋の主は彼だ。許可なく土足で踏み込み、無根拠な言いがかりをつけるお前の方こそ、礼儀を失しているのではないか?」
「なっ……!?」
理路整然とした正論を叩きつけられ、ラシードは絶句した。
確かにここは現在アレクが借りている部屋であり、ラシードは「実家のかつての自室」という感覚で飛び込んでしまった。
だが、命を懸けて滑車で吹雪を越えてきた身としては、あまりに報われない仕打ちである。
「文句があるなら、外の雪を払ってから改めてノックをして来い。……もっとも、カシアスが来ているという話が本当ならば、そんな悠長なことをしている暇もなさそうだがな」
ヴィクトリアは、机の上に置かれたアレクのたどたどしい文字が並ぶ紙を手に取った。
先ほどまでの、どこか面白がっていたような空気は消え、その瞳には理知的な光が宿っていた。
その横で、アレクは「自分の部屋」と公認されたことに恐縮しつつ、火花を散らす二人のやり取りをハラハラと見守っていた。
「待て、ヴィクトリア……話はまだ終わってないぞ」
「いいや、終わりだ。お前はまず広間へ戻って、その冷え切った体を温めてこい。話は食卓で聞く!」
有無を言わせぬ口調に毒気を抜かれ、ラシードは濡れ鼠のまま廊下へ引き下がるしかなかった。
広間の食卓では、アイラとマイラがいつも以上にテキパキと動いていた。
手伝いの女たちには「家族で大事な相談があるから」と断りを入れて帰し、今はラシード、アレク、そして献身的なハンナだけが残っている。
温かな食事が並んだが、ラシードが語った言葉のあまりの重さに、誰も匙を動かそうとはしなかった。
「あの修道士……本物だったか。聖職者が盗み、おまけに人殺しとは、世も末だな」
「まったくだ。だが教団はメンツのために身内を守っちまった。時に理屈を追い越すからな」
ラシードが苦々しく応じる。
「さて……どうするつもりだ、トーリィ」
「どうするもこうするも、私が東の王国に行かなければなるまい。そうしなければ、誰もマリア・ロゼ様を止められない」
ヴィクトリアは下山する気だった。その覚悟を決めたように、彼女はフッと笑った。
「下山方法は? ……まさか歩いて下るつもりじゃないよな?」
「それしかないな、ラシード」
「冗談じゃないよ、ヴィクトリア!!」
アイラが叫んだ。
窓の外は猛烈な吹雪。雪に見慣れた彼女でも躊躇するほどの絶望が広がっている。
重苦しい沈黙が流れるなか、アイラの隣で青ざめていた、マイラが縋るように口を開いた。
「……ねえ、ラシード。あんたが登ってきた時に使った、あの『巻き上げ機』はどうなの? 荷物を引き上げるためのいかだなら、ヴィクトリアを乗せて下ろすことだってできるんじゃない?」
「無理だ、マイラ叔母さん」
ラシードは即座に首を振った。
自分がついさっき、あの板切れ一枚に命を預けて死線を越えてきたからこそ、その言葉には重すぎる拒絶が籠もっていた。
「あれは人が乗るもんじゃない。……登るのすさえ、生きた心地がしなかった」
ラシードは食卓の上のコップを一つ手に取り、斜めに傾けて見せた。
「下りるってことは、重力に従ってあの絶壁を『自由落下』するってことだ。重石との均衡なんて、この吹雪の中じゃあてにできない。加速がつけば、いかだは制御不能の弾丸になる。……ブレーキをかけようにも、摩擦でワイヤーが焼き切れるか、その前にあまりの衝撃でいかだがバラバラに砕けるのが関の山だ」
「……そんな」
マイラは絶望したように項垂れた。
「そういうわけだ。歩く以外に方法はない」
ヴィクトリアは議論を断ち切るように言い捨て、席を立った。
「待ってください、ヴィック」
そこでようやく、アレクが言葉を発した。
ヴィクトリアが足を止め、怪訝そうに振り返る。
「なんだアレク…お前も反対して、私に何か言うつもりか?」
「反対っていうか……。そもそも、ヴィックがそこまで無理をして戻る必要なんて、本当にあるんですか? 撃たれて、死にそうになって……なのに、また死ぬかもしれない思いをしてまで戻らなきゃいけないなんて、おかしいですよ」
「そうだな……。彼の言う通りだ。お前が死ぬ思いまでして戻らなければならない理由なんてどこにもないな。お前はこの村にいなかった。それで済む話だ」
ラシードも低い声で同調した。
「俺が狼煙を上げなければ、あいつは諦めて他を探しに行くだろう」
だが、ヴィクトリアは鋭い眼光をラシードに向けた。
「……じゃあ、なぜお前は死ぬ思いまでして、この吹雪の中を上がってきたんだ、ラシード。そこまでして、私に報告しに来た理由はなんだ」
「それは、俺が行かなければあの余所者が自分で村まで行くと言い出しそうだったからだ。誰かがやらなければならないなら、俺がやる。それだけのことだ」
ヴィクトリアは、微かに唇の端を吊り上げた。
「……その言葉を、そのまま借りるぞ。誰かがやらなければならないなら、私がやる。それだけだ」
「……正気か、トーリィ」
ラシードが、低く、這いずるような声で言った。
「腰まで埋まる新雪だ。それも、吹き溜まりになれば人間の背丈を超える場所もある。屈強な村のたちが束になっても、麓まで一日で辿り着くことすら不可能だ」
「一日で辿り着こうとは思っていない」
ヴィクトリアは静かに、しかし断固とした口調で返した。
「……ラシード。お前が滑車で上がってきた時、雪の境界はどの高さまで降りていた」
「境界か……。標高1,200メートル付近にある『境界の岩場』だ。あそこまではまだ土が見えていたが、そこから上は一気に埋まってる。とてもじゃないが歩ける道じゃない」
「標高1,200か。ならば、まずはそこを目指す。標高1,800メートル地点にある、あの『岩穴』を覚えているな?」
ヴィクトリアの問いに、ラシードはハッとしたように目を見開いた。
「あそこか……。だが、標高2,500メートルのこの村から一気に700メートルも高度を下げるんだぞ。今の雪じゃあ、辿り着く前に日が暮れる。凍死しに行くようなもんだ」
「ああ。だから明日は、何が何でもあの岩穴まで辿り着き、そこで一泊する。あそこなら風を遮れるし、薪さえ持ち込めば火も熾せる。……そして翌朝、そこから標高にして600メートルほど一気に下れば、お前の言った『境界の岩場』に出る。雪さえなくなれば、あとは泥を這ってでも麓へ駆け降りられる」
「いいかい、ヴィクトリア。それはあくまで『雪がこれ以上ひどくならなければ』の話だよ!」
アイラが身を乗り出して食い下がる。
「もし夜中にさらに雪が積もって、境界がさらに下まで降りちまったら……あんたは行き場を失って、あの岩穴で凍えるしかないんだよ!」
「その時は、天に見放されたということだ」
ヴィクトリアの眼差しには、迷いも揺らぎもなかった。
もはやヴィクトリアを止める術はなかった。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
命懸けで帰還したラシードが目撃したのは、自分の元自室でくつろぐヴィクトリアとアレクの姿だった。しかし、告げられた凶報が空気を一変させる。そして王国の危機。絶望的な雪山の中、ヴィクトリアは「徒歩での下山」という無謀な決断を下す。荒れる雪山、強行軍の幕が上がる――!




