第四十話 白銀の戦慄
それは、クレミス村の歴史に刻まれるべき『奇跡』だった。
族長ラシードが命を預けた空中いかだ。
金属が擦れ合う悲鳴と共に虚空へ飛び出したその瞬間、山頂で荒れ狂っていた吹雪が、嘘のようにピタリと止んだのである。
月明かりさえ届かぬ白銀の夜。
ただ、トレデウスの神が道を示すかのように視界が澄み渡った。
ラシードは、まるで神の掌の上を滑走するかのような静寂の中、天を突く霊峰へと吸い込まれていった。
だが、彼が村の広場に足をつき、その足跡を雪に刻んだ瞬間、山は再び牙を剥いた。
天を揺るがす咆哮と共に、先ほどまで以上の猛吹雪が村を完全に包み込んだ。
その『神がかり的な一瞬』を駆け抜けてきたラシードは、感覚の消え失せた足を引きずり、村の中心に聳える邸宅へと向かっていた。
向かう先は、村の広場に面した、一際頑強な造りの石造りの家。
かつての族長の家であり、母アイラと叔母マイラの実家である。
そして、ラシード自身もまた、族長として独立し結婚するまでは、家族としてこの屋根の下で過ごしていた、思い入れの深い「家」だった。
玄関の扉を開けてすぐの広々とした食卓では、数人の村の女性たちが忙しく立ち働いていた。
アイラとマイラは、幼い頃から家事の一切を周囲に委ねて育ってきた。
この閉ざされた冬の期間も、彼女たちの生活を支えるのは、甲斐甲斐しく世話を焼く村の女たちの役目だった。
キッチンから繋がる食卓には、女たちが手際よく調理する肉と根菜を煮込む香りが漂い、夕食の準備が整いつつあった。
「アイラ様、マイラ様、今夜はとびきり温まるスープですよ」
女たちの朗らかな声が響く、穏やかな夕食前のひととき。
――ドォォン!
目と鼻の先にある玄関扉が、地響きのような音を立てて打ち鳴らされた。
分厚い石壁を震わせるその衝撃に、アイラとマイラは弾かれたように顔を上げた。
「今の音、何……?」
戸惑う村の女たちを余所に、アイラの表情が劇的に変わった。
ドシン、ドシン、ドシン。
玄関から食卓へと続く短い廊下を、遠慮のない、暴力的なまでの足音が近づいてくる。
それは、雪山用の重厚な皮長靴が板張りを踏みしめる音。
かつてこの家で育ち、結婚するまで毎日のように響かせていた、あの懐かしくも力強い――けれど今は、かつてないほどに切迫した息子の歩調。
アイラは、椅子が倒れるのも構わず勢いよく立ち上がった。
その双眸は、食卓へと繋がる開かれた扉を射貫いている。
その直後、廊下から雪の冷気と共に、一つの影がなだれ込んできた。
現れたのは、全身を白銀の雪で覆い、まるで氷の魔像と化した巨大な影だった。
毛皮の外套から溶けた雪がボタボタと滴り、男の吐く白く熱い息が、食卓の湯気と混じって白く濁る。
「……ッ! ラシード!」
アイラの悲鳴に近い叫びと同時に、世話を焼いていた女が驚愕のあまり皿を落とした。
陶器の割れる鋭い音が、静まり返った広間に響く。
三週間前に山を下りたはずの息子が、いま、死線を越えた形相でそこに立っていた。
眉毛や髭には氷柱が垂れ下がり、寒さで紫に染まった顔の中で、瞳だけが峻烈な光を湛えていた。
「……ラシード、どうやって……。山道は完全に閉ざされていたはずなのに……」
叔母のマイラも震える声で立ち尽くす。
だが、ラシードは母たちの困惑を気にかける余裕すらない。喘ぐような掠れた声で、彼は一つの名を絞り出した。
「……トーリィは……ここにいるのか? いるのなら、話がある」
その切迫した声に、アイラは呆然としながらも、廊下の先を指差した。
「ヴィクトリアなら、お前が使っていた部屋で――」
アイラの言葉が最後まで終わるのを待たず、ラシードは濡れた外套を床に脱ぎ捨てた。
凍りついた身体が軋む悲鳴を無視し、彼はかつて慣れ親しんだ廊下を、乱暴な足取りで突き進む。
そして、現在は客間として使われている「かつての自室」の扉を、ノックもせず勢いよく押し開いた。
だが、飛び込んだラシードの視界に飛び込んできたのは、彼が予想していた「傷つき、伏せっている従妹」の姿ではなかった。
温かな暖炉の火が爆ぜる、静かな部屋。
かつて自分が使っていた机の前にアレクが座り、そのすぐ後ろに、覆いかぶさるようにして、ヴィクトリアが立っていた。
深く屈み込み、背後から手を回しているヴィクトリア自身の体が障害物となり、座っている男の手元が何をしているのかはラシードには一切見えない。
ただ、二人の肩は隙間なく触れ合い、ヴィクトリアが男の手を包み込むように握っていることだけが、嫌でも目に付いた。
「……そうだ、そこはもっと、優しく。私に身を委ねろ」
ヴィクトリアの低く、落ち着いた声が響く。
「……こ、こうか? ヴィック」
「ああ……。いいぞ。お前の指、かなり熱くて力強いな……。だが、ここではもっと力を抜け。私の動きに合わせるだけでいい」
ただ単にいつものようにヴィクトリアがアレクに文字の書き方を指導しているに過ぎなかったが、屈み込んだヴィクトリアの髪が、アレクの首筋をかすめるほどに顔を寄せ合うその光景は、事情を知らぬ者が、
――特に、命懸けで死線を越えてきた男の目には、あまりにも「決定的な場面」として映った。
「…………は?」
ラシードの口から、間の抜けた声が漏れた。
扉の取っ手を握ったまま、彼は石像のように硬直する。
氷点下の山を越えてきた彼の全身に、別の意味での戦慄が走り抜けた。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
死線を越え、命懸けで吹雪の霊峰を走破した族長ラシード。負傷した従妹ヴィクトリアを案じ、かつての自室へ駆け込んだ彼が目にしたのは、彼女が男の背後から手を重ね、甘く囁き合う睦まじい光景だった。あまりに「決定的」な誤解の瞬間に、極限状態の英雄は別の意味で凍りつくこととなる。




