第三十九話 白銀の拒絶
争乱の火種、ヴィクトリアを連れ戻す――。
その目的のためにどれほどの困難が待ち受けているか、宰相ジュールもカシアスも、ある重要な事実を決定的に失念していた。
失念していたというより、元々雪とはほとんど無縁の生活をしている彼らにとって、今はまだ「冬ではない」という認識だったのだ。
中央都市サントゥスの北方に、天を突くように聳える霊峰。古より『トレデウス』と名付けられたその山の麓に、クレミス村はあった。
ヴィクトリアが、銃撃された右肩の養生先にこの地を選んだのは、決して思いつきではない。
本格的な冬の季節よりも前に、山頂付近には雪が降り積り、クレミス村は雪によって完全に閉ざされ、外界から一切の干渉を拒絶する巨大な要塞へと変貌する。
犯人の正体さえ掴めぬ現状、刺客が物理的に足を踏み入れられないこの場所こそ、彼女が冷徹な計算の果てに選んだ「絶対安全圏」だったのだ。
だが、まさにその閉鎖性が、今や村を守る者にとっても足枷になろうとしていた。
族長ラシードと村の男たちは、南方のモンクス山で報告された不審者の情報を確かめるため、三週間前から村を離れていた。
彼らがモンクス山に入った時、まだ雪の気配はなく、一片すら舞っていなかった。
しかし、偵察を終え、サントゥスの中心部『サン・マルコ』へと辿り着いた時、世界は一変していた。
視界の先、遠くに聳えるトレデウス山は、すでに無慈悲な白銀に染まっていたのである。
覚悟していたこととはいえ、もはや村へ戻る術はない。
クレミス村に帰還するには、途中から雪深く険しい山道を行進しなければならない。
雪を知り尽くした彼らの足をもってしても、村までは最低でも四、五日はかかる。遮るもののない極寒の雪中で野宿を強行するなど、いかに屈強な男たちといえど死を意味する無謀な行いだった。
彼らはやむなく、登山口にある野営地で、雪解けを待つという苦渋の決断を下した。
男たちしかいない野営地は、しんと静まり返っていた。故郷を目前に足止めを食らった男たちの無念さが、焚き火の爆ぜる音だけが響く重苦しい静寂となって、場を支配していた。
その静寂を、入り口の方から響く怒号と、馬の悲鳴が切り裂いた。
「旦那、いくらなんでも無理だ! これ以上の深入りは自殺行為ですよ!」
宿営地の広場、まさにこれから険しい山道へと続く登山口の喉元で揉めていたのは、見慣れぬ派手な馬車と、必死に訴える御者。そして、御者を力ずくで引きずり下ろそうとしている、ぎらついた目をした男――カシアスだった。
カシアスが苛立つのは無理もなかった。
今、彼が立っている登山口付近には、雪の一片すら落ちていない。
冷たい雨に濡れた黒い土と、枯れ始めた広葉樹が広がる、典型的な晩秋の景色だ。
「何を怯えている! 道は乾いているじゃないか。この程度の勾配、馬車を飛ばせば一日で村に着く!」
「旦那、上を見てくだせえ……!」
御者が指差した先。見上げるトレデウス山の山腹、標高が一段高くなった『針葉樹の境界線』から上は、まるで別の惑星のように真っ白に塗り潰されていた。
「……何事だ」
幾重にも丸太を組み上げた頑強な詰め所から、毛皮の外套を羽織ったラシードが現れた。背後には、同じく獲物を狩るような目をした村の男たちが続く。
「……おい、そこまでだ、余所者」
ラシードの低い声が広場に響く。
だが、カシアスは怯むどころか、飢えた獣のような視線を向けた。
「この先のクレミス村にいる者に用がある。どうしてもそいつを連れてローゼリアン王国に戻らなければならない」
「……ローゼリアン? トーリィ――ヴィクトリアが村に来ているというのか?」
ラシードは怪訝な顔を隠さず、男たちと顔を見合わせた。
自分たちが村を発ってからの三週間、入れ違いで彼女が帰郷していたというのか。
「何を馬鹿なことを。俺たちが村を発った時、トーリィの姿などなかった」
「……いないのであれば、それで構わない。この私の目で確かめるまでだ。そこをどけ!」
「死にたいなら止めはしない。だがな、余所者。あんた、あの『白』が何に見える?」
ラシードは、雲に隠れた山頂を顎でしゃくった。
「ここらはまだ雨だが、あそこから先は腰まで埋まる雪の地獄だ。馬車どころか、馬の脚だって一歩で折れる。……馬車を降りて歩いたとしても、村に着くまで何日かかると思っている? 何もない極寒の雪の下で、野宿でもするつもりか?」
その言葉が、カシアスの動きを氷結させた。しかし、すぐにまた縋り付くような形相でラシードの胸元を掴み上げた。
「それでも……! 何か、何か方法はないのか……!?」
ラシードはその目に宿る尋常ならざる切迫感を見逃さなかった。
「理由を聞かせてもらおうか。……ここでは何だ、入れ」
丸太小屋の中で、ラシードはカシアスからすべてを聞いた。狙撃、そして刻一刻と迫る情勢の悪化。
話を聞き終えたラシードは、静かに立ち上がり、外に出た。その後にカシアスや村の男達が続く。
「俺が村へ戻り、本当にトーリィがいるのか確かめてくる」
「ヴィクトリアを連れ戻すのは私の任務だ。山を登る方法が他にあるというのなら、私が行く」
カシアスが遮るように言ったが、ラシードは冷徹に言い放った。
「断る。あんたの覚悟は認めてやるが、素人がこれを操るなど、死にに行くようなものだ」
ラシードは、巨大な巻き上げ機へと歩み寄った。太い丸太を組み上げ、巨大な鉄の歯車を噛ませた無骨な装置だ。
カシアスは息を呑んだ。それは籠ですらなかった。数枚の厚い木板を頑強なロープで結わえただけの、いわば空中を渡る『いかだ』だ。人を乗せるためのものではない。
「いいか、余所者。よく聞け」
ラシードは『いかだ』のロープを掴み、カシアスの目を射貫くように見据えた。
「俺が村に着いて、もし本当にトーリィ……ヴィクトリアがいたならば、明日の夜明け、あの断崖の頂で『狼煙』を上げる。一族に伝わる紅の香粉を焚き、焦がすような赤い煙を上げてやる。それが合図だ」
「……狼煙だと? これほど距離があるうえ、山頂はあんなに荒れている。肉眼で判別できるというのか?」
「ここからでも、あの断崖の輪郭は拝めるはずだ。あそこだけは雲より高い。もし陽が昇りきっても赤い煙が上がらなければ、彼女は村にはいない。……そうなればお前は、大人しく他所を当たれ」
ラシードは腰の革袋を手に取ると、栓を抜き、喉を焼くような強い蒸留酒をあおった。
鼻を突く酒の香りが吹雪に混じる。
内側から沸き立つ熱で恐怖をねじ伏せ、彼は板切れ一枚の『いかだ』の上へと飛び乗った。
「ラシード様、本当に行かれるのですか! せめて我らがお供を……!」
「来ても足手まといだ。反対側の重石との均衡が崩れれば、途中で宙吊りになるのがオチだ。……俺一人で十分だ」
詰め寄ろうとした男たちが、一斉に足を止めた。ラシードの瞳が鋭利な光を放ったからだ。
一族を統べる族長としての峻厳な意志が宿っている。逆らう者は誰一人としていない。
彼の目が「これは命令だ」と雄弁に語っていた。
ラシードはその鋭い視線で広場をなぎ払うように見渡し、自分たちの命を預かる者の覚悟を、言葉以上に重く男たちの胸に突き刺した。
「叩け!」
ラシードの鋭い号令に、村の男たちが動き出した。彼らは悲痛な決意を秘めた目で、巨大な歯車を固定している鉄の閂へと木槌を叩く。
ガギィィン! と凍てついた金属音が空気を震わせる。最後の一打で、巨大な閂が火花を散らして弾け飛んだ。
その瞬間、封じられていた不均衡な重力が解き放たれた。
ドォォォン……!
腹の底に響く地響きと共に、巨大な歯車が猛烈な勢いで回転を始める。それはまさに、女神が運命の輪を回し始めたかのような、抗いようのない力強さだった。
もし無事に村にたどり着いたとしても、雪山を下山する方法をラシードはまだ考えつけなかった。
だが、今はそれを考えても答えは出ない。
自分がやらなければ、あの余所者は自分が命がけでも村に行こうとするだろう。誰かがやらなければならないなら、族長である自分がやるだけだ。
「(もし本当にヴィクトリアが村にいるんだとしたら、あいつなら何か知恵を絞れるかもしれないな)」
神の使い銀狼オルティスから、トレデウス神話の6月の女神と同じ名前を名付けられた、気高く聡明な従妹―ヴィクトリア。
「(あいつは、『勝利と知恵の女神様』――ヴィクトリア様の申し子だからな!)」
金属が擦れ合う悲鳴のような音が響き渡り、いかだは一瞬にして白銀の山めがけて吸い込まれていった。
カシアスは、もはや言葉を発することはなかった。
ただ、ラシードが消えていった谷の深淵を、焼くような視線で見つめ続けていた。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
負傷したヴィクトリアが潜む雪の要塞、クレミス村。連れ戻しに来たカシアスは登山口で族長
ラシードと対峙する。雪に閉ざされ進軍不能な絶壁を前に、ラシードは決死の移動手段「空中いかだ」で独り山頂を目指す。従妹の生存を信じ、白銀の地獄へ身を投じた族長は、約束の狼煙を上げられるのか。




